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他愛のない会話もリズムがいい

 ぼくは、カッキーがコーヒーを落とす様子を居間のテーブルから眺めている。

 部屋に漂う馥郁とした香り。

 結婚して三年が経ったいまでも、ああ、ぼくはこの女性と結婚したんだなぁ……、と感慨深くなれる瞬間だ。

 やがて、プロが丁寧にドリップしたコーヒーがテーブルに運ばれてきた。

「サンキュー」

「うん」

 ぼくらは、すっきりとした苦味のあるコーヒーを飲みながら、小声で他愛もない会話をした。洋太を起こさないよう、最近はほとんどテレビをつけないから、むしろ会話のリズムがいい。

 居間の小さなサイドボードの上には、結婚式と新婚旅行と洋太が生まれたときの写真が飾られている。さらに、その上の白い壁にも、洋太を中心とした家族の写真がピンでたくさん留められている。そのほとんどはカッキーが撮った写真だから、どれもやさしい光があふれたような、いい写真ばかりだ。

 ぼくは、それらの写真のなかに、見慣れない一枚を見つけた。その写真について訊ねようと思ったら、カッキーが先にしゃべり出していた。

「ねえヒロくん、最近ちょっと痩せた?」

「ああ、うん、そうかも。さっき、小沼にも同じことを言われたよ」

「ずっと忙しいもんね……」

「フリーランスは忙しいことが幸せなんだって、昔、よく小沼が言ってたけどね」

「そりゃそうだけど、でも、限度があるよね」

「まあね。でもさ、フリーになって一年目だから、ある程度、安定感を持たせられるまでは、必死にやってみるよ」

「小沼さんに頼まれた二〇枚のイラストは終わったんでしょ?」

「なんとかね。朝までかかったけど」

「じゃあ、今日はゆっくり寝られるの?」

 シンプルな白いコーヒーカップを手にしたカッキーが、心配そうな顔をして小首をかしげる。

「寝てもいいんだけど――」

「例の絵本?」

「うん」

 ぼくとしては、空いた時間が少しでもあれば、なるべく筆をとって、絵本のラフを完成に近づけたいのだ。

「そっかぁ。徹夜明けなんだからさ、あんまり無理はしないでよ?」

「オッケー。ほどほどにするよ」

 と頷きながらも、内心では、いまは少しくらいの無理はしてもいい、と思っていた。一日でも早く、絵本を出せるレベルの絵描きになって、家計に安定感をもたらしたいからだ。そうでなければ、カッキーも将来が心配だろうし、そもそも小心者のぼくが、不安に押しつぶされてしまうかも知れない。

 描きかけのラフを思い出しながら、ぼくは飲み口のいいコーヒーに口をつけた。

「ヒロくんが描いている絵本って、どんな内容なの?」

「うーん……、おおまかに言うと、ふしぎな森に棲んでいる動物の子供たちが活躍する、ちょっとした冒険物語かな」

「へえ。なんか、可愛いらしい感じだね。出来たら見せてよ」 (つづく)

◇概要 念願のフリーのイラストレーターになった洋輝には、絵本を描きたいとの夢があった。ある日、編集者に原稿を見てもらうが厳しい指摘を受け落ち込む。その夜、洋輝は息子の洋太に遺書を書くことを思いつく。

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