●あさのあつこ
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●あさのあつこ

1954年、岡山県生まれ。97年「バッテリー」で第35回野間児童文芸賞、2011年「たまゆら」で第18回島清恋愛文学賞を受賞。著書に「グリーン・グリーン」ほか。

お梅の言葉に触れ、涙が溢れる

公開日: 更新日:

 大金を失った松田屋の身代は、あわや潰れるというところまで傾いた。箪笥の着物も箪笥そのものも売り飛ばしてがらんと広くなった座敷で、うなだれていた父を覚えている。何とか持ち直したものの、父は精魂尽き果てみるみる老け、三月も寝込まずに亡くなった。

 人の情は、罠のようなものだ。うかつに泣けば、穴に落ちる。

「ほんとうは……親父がかわいそう……だった。親父が好き……だったから、かわいそうで……。騙した男が憎くて……。でも、松田屋を継いだばかりで……それどころではなくて……泣いてなんか……いられなくて……」

「ずっと我慢しているとね、身体が縮んで硬くなるんです。そしたら気持ちも流れなくなります。涙も血も汗も流れが悪くなってしまうんです。だから、泣けてよかったですよ、喜平さん。泣けるのは、いい兆しです」

 娘ほどの年端の女の前で涙を零して、泣いている。嗚咽を漏らし、泣きじゃくっている。信じられなかった。ただ、涙が落ちるたびに、お梅の言う“流れ”を感じ取れた。いつの間にか身の内に幾つもの流れができている。

 軽い。信じられないほどに身体が軽い。そして柔らかい。

「喜平さん、息を大きく、できるだけ深く吸って、吐いてみてください」

 大きく、深く息を吸って、吐く。

 驚くほど胸が開いた。夜気がするすると滑り込み、温もった息が外に出て行く。

 流れている。流れている。さらさらと音を立てて淀みなく流れている。

 確かに、おれの身体は縮んでいた。硬く硬く強張っていた。

 何もかもが詰まっていたんだ。

 もう我慢しなくていい。

 泣けて、よかった。

 お梅の一言一言は優しい。こんな優しい物言いに、言葉に初めて触れた。優し過ぎてまた、泣いてしまう。また、涙が溢れてしまう。抑えきれない。

「お梅さん……お絹は……お絹は……」

「はい、お絹さんがどうかしましたか」

「わたしを……殺そうなんて考えちゃ……い、いないよな」

 おれは何を尋ねてるんだ? 氏も素性も知らない相手に何て物騒なことを問うている。

「いませんよ」

 きっぱり言い切られた。さっきまでの甘い響きは、ない。

「なぜ、そんなことを考えたんです? 喜平さん」

「そう思った……ほんのちょっとだけ思って……。く、薬で殺されるんじゃないかと」

「なぜ、そんなことを考えたんです?」

 同じ問いかけが繰り返される。

「それは……身体の調子が悪くて、本当に悪くて……。おかしいと思ったんだ。今まで、そんなことはなかった……。明らかにおかしかったんだ」

「もう、ぎりぎりだったんですよ」

 お梅がふっと息を吐き出した。唇は艶やかに紅い。白い肌と紅い唇。日の下では生き生きとした若さの証にもなるのだろうが、行灯の明かりに照らされればどこか妖しげな気配を纏う。下腹が熱くなる。揉んでもらったときとは異質の熱さだ。喜平は唾を呑み込み、お梅に視線を向けた。どんな眼つきをしていても不躾であっても、盲いた者にはわからないだろう。もう一度、唾を呑み込んだとき低い唸りが聞こえた。

 (つづく)

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