田舎を捨てた「独身女」は不幸ですか。絶縁した家族が来て…今さら何の用?【新宿の女・西村 咲子38歳 #1】
【新宿の女・西村 咲子38歳 #1】
【何者でもない、惑う女たちー小説ー】
いまだ残暑が残る9月の初め。月曜日のAM7:30。
すでに汗ばむ陽気に包まれながら、西村咲子は新宿西口の高層ビル群を愛車のeバイクで駆け抜けた。
初台にある自宅から、勤務先まで自転車で10分。ただ、8時を過ぎると会社近くの駐輪場が満車になってしまうため、いつもこの時間に到着するようにしている。
――会社の近くに住んだ意味ないよね、これじゃ…。
そんな矛盾を嗤(わら)いながらも、咲子はこの環境には満足している。
東京のど真ん中で、自分は、自由に好きな仕事をしているのだ。
高層階のオフィスで働ける幸せ
「おはようございまーす」
咲子は今日も一番乗りで会社に到着し、誰もいないオフィスフロアに呼びかけた。
天気のいい日。地上30階の窓辺からは遠くにうっすら富士山も見える。
一身に太陽の光を浴び、清々しい気分で深呼吸をしたら、ひとつ、アイディアが浮かんできた。咲子はさっそく自らのワークブースに駆け込んで、Macを立ち上げる。
左手にスタバのラテを、右手にマウスを握り締めて。
大手食品メーカーのデザイン室に勤務している咲子。
東京藝大を卒業し、いくつかのデザイン事務所での勤務を経て10年前、現在の会社に勤め始めた。
デザイナーというと、独立してフリーで活動する者が多いが、咲子はいままでもこれからも、インハウスデザイナーとしてやっていきたいと思っている。自らの勤勉で堅実な性格、そしてフリーとして成功するほどの営業力や特出した能力が足りないことも自覚しているからだ。
これは諦めではない。自ら判断を下した身の丈に合った自分らしい生き方だ。
それなりの収入をもらい、高層ビルの中の最先端のオフィスで、東京の景色を眺めながら、好きなことができる生活。恋人はいないが、気の合う友人にも恵まれている。
咲子は今、とても幸せだと胸張って言える。しがらみなどなにもない毎日だ。
遠い場所に置いてきた、一点の気がかりを除けば…。
友人のドタキャンも慣れっこ
「え、ミッコ、今日行けないの?」
金曜の夜。咲子は新宿西口のベルトコンベヤのような地下歩道に運ばれながら電話に出ると、それは大学時代からの友人・ミッコからの連絡だった。
子どもが腹痛で小学校を早退し、頼みの夫も急な残業が入ったのだという。
「そう…わかった。お大事にしてね」
突然のキャンセル。その晩は、ミッコと御苑のイタリアンで軽く食事をした後、2丁目の行きつけのゲイバーに繰り出す予定だった。
このまま一人で赴いてもよかったが、その日はミッコと会うことが一番の目的であり楽しみだった。素直に家に帰ることに決める。
――まあ、イタリアンもゲイバーもいつでも行けるからなぁ…。
ミッコと会うのは半年ぶりだった。学生時代から毎日のように会っていた親友だったが、彼女が結婚した7年前からは、年に3回会えれば十分な頻度となっている。
遊びの約束をしても、今日のように子どもが理由でドタキャンされたことも幾度かある。どうしようもない上に、もう慣れっこなので怒りもわかないのだが…。
せめておいしいものでも食べようと、咲子はその足で京王デパートにて開催されている北海道物産展に向かうことにした。
いつものマンションが何かおかしい…
いくらとウニ、ホタテがふんだんに入った海鮮丼といかめし、ザンギなどを買い込み、心弾ませて帰る先は、初台駅から徒歩5分の位置にある1LDK、築15年ほどの中古分譲マンションだ。
ここは1年前に購入したばかりの自分の城。不動産業の知人を通じ比較的割安で手に入れた。
35平米ほどの部屋は少々手狭に感じることもあるが、一人で暮らすにはちょうどいい。小さいがベランダもあり、そこから西新宿の夜景を眺めながらビールを傾けるのが咲子の至福の時間だ。
しかも今晩は、北海道のご馳走が満載だ。口内にその味を思い浮かべながら、駐輪場にバイクを止める。そして、足取り軽く正面玄関から入り、オートロックを解除したその時だった。
――…ん?
背後に聞こえる不穏な足音は
自動ドアが開いたタイミングで、背後から何者かが近づいて来る気配を感じた。
誰かがマンションに入ってきたようだった。背格好からして男だろう。
東京に暮らし始めて20年の勘…。
咲子はエレベーターに向かう前に、まず立ち止まる。先を譲ろうとするためだ。手にはスマホを握りしめている。足音は徐々に近づいて来た。
…すると、男は咲子の肩を掴んだ。
「!」
「姉ちゃん!」
それは、耳の奥の遠い記憶にある声だった。
「…将平」
振り向く。5歳年下の弟がそこにいた。
17年間、疎遠だった弟の訪問
再会は17年ぶりであった。実家や親戚には、電話やLINEを知らせていない。何かの時のために住所だけは伝えてあるため、一方的に年賀状は送られてくるが、それ以外のやりとりはほぼ断っている。
彼の結婚式にも出ていない。帰郷も一切していない。
「ひさしぶり。よかった、姉ちゃん生きていた」
「相変わらず失礼だね」
「とにかくさ、外でずっと待ってたんだよ。トイレ貸してくんない?」
「…」
この場所で立ち話をするわけにもいかず、咲子は将平を部屋に迎え入れることにした。
突然、遠い故郷からこの場所までやってきたことに、どこか嫌な予感をはらみながら。
【#2へつづく:将平から聞かされた咲子の地元での評判とは】
(ミドリマチ/作家・ライター)