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船村徹に関する記事

船村 徹(ふなむら とおる)1932年6月12日栃木県生まれ。2017年2月16日没。作曲家。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。横綱審議委員会委員などを務めた。
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紅白引退の“御大”に意外な過去…北島三郎は漫才師だった!

■その名も「ゲルピン・ちん太・ぽん太」 デビューさせヒット歌手に育ててくれた恩師である、作曲家・船村徹にも義理を欠かさない。船村は北島が歌手デビュー前、歌謡漫才コンビ「ゲルピン・ちん太・ぽん太」を組ませ、“ぽん太”として舞台の前座を務めさせたこともあった。 流しも恥ずかしくてたまらなかったという北島、漫才をするのはさぞつらかっただろうが、北島は今も「船村徹同門会」…

右端が作曲家の新井利昌氏

今あるのはあの人のおかげ

“天然”瀬川瑛子を「芸域広げる」と盛り立てた恩人の激励

多くの歌手の皆さんと競作になった「矢切の渡し」の船村徹先生(作曲)、昨年12月発売の最新曲「泣きたい夜」をはじめ、5作品の作詞や作曲をしてくださった原譲二こと北島三郎先輩。所属のクラウンレコードのプロデューサーさん。そして、ずっと応援し、支えてくれたファンの皆さんがいてくださったから今も現役で続けていられるんです。 そんなたくさんのお世話になった方の中から一人といえ…

君夕子さん

あの人は今こうしている

“任侠演歌”でヒット 君夕子さんは10坪スナックのママに

女のコと2人で切り盛りしてる方がどんなに気が楽か」 さて、東大阪市生まれの君さんは歌手を目指して上京し、船村徹門下生に。69年10月、千麻田玲子の芸名で「汽車のあなた」でデビュー。その後、レコード会社を移り、70年、「神様がまちがったのね」で再デビューした。 「当時はやってたのが由紀さおりさんの『手紙』や奥村チヨさんの『中途半端はやめて』、日吉ミミさんの『男と女のお…

カツオ船を降りて鳥羽のホテルで5年間板前修業

鳥羽一郎・山川豊 「我らの演歌路」

歌手デビューする弟が調べてくれた船村徹先生の連絡先

それは歌手になりたいからではなく、ただただ船村徹先生に会いたい一心から。 船村先生とは不思議な縁というしかないんです。その当時、歌っている歌手は知っているけど、その曲を誰が作ったか、名前までは知らなかった。で、調べてみると全部、船村先生の曲だったんです。後々、訪ねていくことにもなるしね。 もっとも、全日本歌謡選手権は2回落ちました。予選で歌ったのは船村徹・作曲、星野…

鳥羽一郎と山川豊兄弟

鳥羽一郎・山川豊 「我らの演歌路」

警備員を振り切って駆け付けた弟の新人賞受賞

船村徹先生はほとんど横にもならない人だったから、付き人も文字通り寝る暇がないってことになる。一体、どういう毎日をどういう気持ちで過ごしていたのか、今となっては記憶がない。 「ウチに来ても、歌は教えませんよ」と最初に言われていたけれども、ただただ船村徹という人間が大好きで、先生のもとに行ったわけだから、俺から何かしてもらいたいとか言うようなことはない。内弟子なんて今じ…

鳥羽一郎・山川豊 「我らの演歌路」

更生保護司18年、漁港コンサート86回やってきた

漁港コンサートは船村徹先生に言われた。 「おかには交通遺児がいて交通事故で親を亡くした子供たちをいろんな人が手助けしている。同じように海には海難遺児がいるけど、おかと違って海の足長おじさんが少ないから、おまえは海で父親を亡くした家族、子供を手助けしたらどうか」 それで始めたのが漁港コンサートです。第1回は88年、茨城・那珂湊漁港でした。以来、これまで全国各地で86…

船村徹氏の元で3年ほど弟子生活を続けた

鳥羽一郎・山川豊 「我らの演歌路」

船村先生のいる寿司屋で「君も一杯飲みなさい」と

船村徹を呼び出すとは何ごとだ」「俺を呼び出すのはどこのどいつだ」と。そしたら、ホテル地下の「千代田」という寿司屋のカウンターで何人かと飲んでいることが分かった。 それでそこに行ってパッと暖簾をあげたら、船村徹先生がデーンと座っている。で、もう顔を見たからいいや、そのまま引き返そうといったんは思ったけど、せっかく来たんだからと意を決して「実はこういうもので鳥羽から出…

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流されゆく日々

連載10037回 昭和ヒトケタ派の残影

大島渚、小田実、岩城宏之、白土三平、青島幸男、船村徹、江藤淳、石原慎太郎、藤田敏八、後藤明生など、すぐに頭に浮んでくるだけでも随分いる。稲盛和夫、横山ノックなども異色のヒトケタ派である。映画監督が多いのは、ヒトケタ派の特色かもしれない。 さらに昭和4、5年、8、9年あたりを考えてみると、無数の顔が浮かびあがってくる。そのあたりの世代が、このところ次々と世を去っていっ…

両親と(伝蔵さん・90歳、春枝さん・故人=84歳)

鳥羽一郎・山川豊 「我らの演歌路」

演歌が流行っていないと街に活気がない

歌については船村徹先生にコンコンと言われたことがわかるようになった。例えば、「男の港」の「板子一枚、生命を張った」という歌詞。この言葉をメロディーにのせたら、今の若い人が理解できるのか。この人は何を歌っているのかとなりかねない。歌詞が伝わらない。それでなくても、演歌の言葉自体が死語みたいなもので、「板子一枚、生命を張った」と歌っても、ウニャウニャ言っているだけと受…

楽屋では兄弟であまり話をしないとか

鳥羽一郎・山川豊 「我らの演歌路」

兄弟げんかあり、もらい泣きありのコンサート

船村徹先生は兄貴にレッスンをしなかった。漁師、海の匂いを消さないため。そういう兄貴の良さを心からわかっているのが船村先生のすごいところです。僕はというと逆で、匂いを消され、消されることで個性が出た。 僕の場合、肩の力が抜けているほどいい。例えば、今日はものすごく気合が入ってよかった、熱唱したな、満足、と思ったときはお客さんの反応がよくない。以前、熱があってフラフラの…

自分の名前が付けられた電車の前で

鳥羽一郎・山川豊 「我らの演歌路」

おふくろは「うちだけで2枠は申し訳ない」と

上京した僕の後を追って船村徹先生の門下生になって3年、船村先生が兄貴にほとんどレッスンらしいレッスンをしなかったというのも分かる気がした。兄貴のデビュー時のキャッチフレーズは「潮の香りが似合う男」。鳥羽の漁師町で育った兄貴がまとっていた潮の香りをそのまま損なうことなく、歌に凝縮させようという狙いがあったのではないか。 船村先生はお茶くみや庭の草むしりなどをやらせ、…

内弟子になって2年、いよいよデビューへ

鳥羽一郎・山川豊 「我らの演歌路」

海を歌う歌い手が出てきたと言われた「兄弟船」

船村徹先生の内弟子になって約2年。馬渕玄三という音楽ディレクターをモデルにした五木寛之先生原作のテレビドラマ「新・海峡物語」(1981年)の挿入歌でデビューの話があったけど、船村先生が「まだ早い」と言って断った。 それを聞いた俺も、もっと先生のところにいたかったから、悔しいというような思いはなかったね。もともと「兄弟船」というのは、素人さんの書いた歌。新聞社が一般か…

1981年のデビュー曲「函館本線」

鳥羽一郎・山川豊 「我らの演歌路」

おふくろにデビュー曲を電話で聞かせると涙声が…

上京してレコード会社の宣伝見習として加わり、営業所を回って業界の裏方から修業を始めると、兄貴は六本木の僕のアパートに転がり込んできて、「船村徹先生の居場所を教えてくれ」と言った。 苦労して調べると「おんなののど自慢」という番組の収録で毎週火曜日に前乗りされ、九段下のホテルが定宿だと分かり、赤福餅を持って弟子にしてもらえるよう直談判し、それをかなえた。 弟子など取っ…

鳥羽一郎

鳥羽一郎・山川豊 「我らの演歌路」

きついし寝れないしで地獄だったマグロ船の2年間

不思議なことに、なぜか船村徹の曲ばかり。 ギターは独学です。叔父さんが買ってくれて自分で覚えた。ただ、ギターを弾いて歌いたいけど、船が走っているときは表に出られない。だから、漁があって停泊している時に、デッキに出て弾いていた。ひとりで出て行って。 とにかくあまりにきついので、2年でマグロ船を降りて、次にカツオ船に乗ることにした。こんな楽な仕事はないと思ったね。お金を…

少年時代の山川

鳥羽一郎・山川豊 「我らの演歌路」

兄貴はカツオ船に乗って僕と妹を進学させてくれた

兄貴は早くから、歌手になろうとしていて、師匠になる船村徹先生の歌が大好きだった。 そして遠洋漁業の漁師になり、カツオ船に乗って、世界の海に出ていった。家計を助け、僕と妹を高校に進学させてくれた。家族のために自ら犠牲になってくれたんだ。 高校といっても、僕が入ったのは伊勢市の職業訓練校で、普通の高校に入れないやつ、入っても落第したやつらが集まるようなところだった。学校…

品川隆二さん

あの人は今こうしている

“焼津の半次”品川隆二さん 5度のがん手術乗り越え作詞家に

有名どころだと、鳥羽一郎が99年に歌った『彼奴』(作曲・船村徹)、翌2000年に宮史郎で発売した『女の劫火』(同・橋田充哲)あたりか。レコーディングされてない曲を含めると、かれこれ60曲は作ってるよ」 他には時代劇関係のトークショーや対談のゲストにしばしば招かれる。 「実は今日も夜7時から京都文化博物館で『月影兵庫』の第1作『浅間は怒っていた』の上映会とトークショー…

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