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原節子特集

著者の石井妙子氏

著者インタビュー

「原節子の真実」石井妙子氏

“永遠の処女”とうたわれ、昭和の日本人にもっとも愛された女優・原節子。全盛期に忽然と銀幕を去り、以降50年以上にわたり世間にその姿を見せなかった伝説の女優は、昨年末、95歳でその生涯を閉じた。 「3年前から彼女の評伝の執筆を開始し、折に触れてご自宅に伺っていましたが、同居する甥御さん夫婦が丁寧に対応してくださるものの、ついに原節子さんにお会いすることはかないませんで…

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張り込んでも撮れず “近況不明50年”原節子さん「伝説」の裏側

山田洋次監督の「原節子さんは美しいままに永遠に生きている人です。半分は神様と思って手を合わせます」というコメントがすべてを物語っている。 伝説の名女優、原節子(本名・会田昌江)さんが9月5日に肺炎のため神奈川県内の病院で亡くなっていたことがわかった。享年95。小津安二郎監督の代表作「晩春」「東京物語」などでヒロインを演じたほか、日本映画史上に残る名作に数多く出演。し…

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スクリーンに甦る原節子…映画館、テレビで追悼企画続々

11月25日に訃報が伝えられた原節子さんのその後の報道が止まらない。さすがに「伝説の大女優」である。暮らしぶりが少しずつテレビや週刊誌などで明らかになってはきたが、それでもこれほど神秘性を帯びた女優は過去あまり記憶がない。神秘性は余分な情報を排除してくれる。これは俳優にとってまったく素晴らしいことだ。 なので、神秘性はそのままに、ここは彼女の作品を年末以降にじっくり…

香川京子

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

まず読書、次が泣くこと、その次がビール…

香川京子さん(写真)は「東京物語」で原節子と共演している。2015年、鎌倉で「東京物語」の上映会と香川さんのトークショーがあった。香川さんは子供の頃は引っ込み思案で、将来女優になることなど夢にも思わなかったそうである。トークショーで印象に残った部分だけ抜き書きしてみる。 原節子さんの大ファンでした。「東京物語」に出演が決まったときは、小津安二郎監督の映画に出ることよ…

原節子さん

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

引退宣言することなく42歳でフェードアウト

「このところ、原節子との結婚の噂しきりなり」と。この時期、原節子は結婚についてさまざまなインタビューを受けている。それには映画界のこんな背景があった。前年の1950年、互いに結婚し、子供もいた島耕二監督と女優の轟夕起子が恋愛事件を起こした。また、同年、原節子が大好きだったイングリッド・バーグマンがイタリアのロベルト・ロッセリーニ監督の「ストロンボリ/神の土地」に主演…

鎌倉といえば大仏様

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

小津安二郎=鎌倉というイメージが定着した理由

原節子が小津映画に初めて出演した作品である。冒頭は北鎌倉の駅舎からはじまる。そして、円覚寺でのお茶会。原節子は笠智衆演じる北鎌倉に住む、大学教授・曾宮周吉の娘、紀子である。婚期を逃しかけた娘を嫁にやるという、小津映画で繰り返し描かれることになった主題である。鎌倉駅や横須賀線の車中での原節子と笠智衆のショットなど、原節子、小津安二郎=鎌倉というイメージは「晩春」が嚆矢…

材木座海岸

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

終戦直後が経済的にも、精神的にも最も苦しい時代でした

また、原節子は経済学者の向坂逸郎との「中央公論」(1957年11月号)での対談でこんな発言もしている。ぼくが気になった原節子のコメントの部分だけランダムに抜き書きしてみよう。 あたくしも歩くことが一番好きなの、はい。 あたくし、材木座から江ノ島まで海岸伝いに三時間くらいかかって歩いて行くんです。そして帰りはタクシーをひろって二十分ぐらいで家に帰ってくる(笑い)。 で…

原節子さん

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

銃後の守りの象徴から戦後民主主義の象徴へ

役名の節子から芸名の原節子となった。しかし、デビュー映画は現存していない。翌年には小津安二郎の友達でもあった、天才・山中貞雄監督の「河内山宗俊」に出演。これは現存していて、ぼくも映画館で見たことがある。16歳の原節子の美しさが際立っていた。 「河内山宗俊」の撮影中、見学に来ていたドイツ人の監督、アーノルド・ファンクに気に入られ、日独合作映画「新しき土」(この映画はフ…

原節子さん

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

役柄の狭さも自覚「本当言うといい仕事したい」

原節子は自分の役柄の狭さを1958年11月3日の東京新聞のインタビューで述べている。 わたしみたいに中途半端な年齢で、しかも役柄がせまいと、なかなか適当な作品もなく、それでつい十カ月も遊んでしまうことになるんですけど、もともとあまり欲のないほうだから、自分から会社に積極的に働きかけるというファイトがないんですね。会社のほうでも専属料さえ払っておけばいいだろうぐらいで…

原節子さん

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

スクリーンでは大柄に見えるが実際の身長は…

(「近代映画」1952年5月号) これは原節子の鎌倉の家を近代映画の記者が来訪したときの言葉。その前年度、原節子は「麥秋」と「めし」で毎日映画コンクール女優演技賞とブルーリボン賞主演女優賞、世界映画社賞女優演技賞を受賞している。原節子が狛江の家を引き払い、鎌倉に永住するのは引退後だが、きっと引退してからは時間に余裕ができ、鎌倉暮らしを楽しんだことだろう。無論、引退し…

原節子

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

毎日飲んでいた原節子 大のビール党でたばこは1日40本

原節子はビール党だった。酒にまつわる原節子のインタビューを少し紹介しておこう。 お正月のオトソで味をしめて少しずつ、一合位飲み出したのは二十三、四の頃からかしら。それが終戦後、電気事情が悪い、忙しいで自然と生活が不規則になり、睡眠時間もロクにとれない始末だったでしょう。それでつい、短い時間をグッスリ眠るために、疲れの後の一杯というわけで、お酒の量がグンとふえましたわ…

原節子

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

「わたくし猾いんです」の台詞は小津なりの皮肉か

これは戦後の混迷期だが、1948(昭和23)年、原節子はやりくりして東京の狛江に600坪の土地を買った。その後、周辺の土地を買い足し、900坪になった。後年、原節子は都内各地や神奈川県下に土地を購入するようになる。狛江の土地は売却したが、のちに都内の土地は親族に贈与している。しかし、原節子の私生活は極めて質素なものだったし、鎌倉の家はなぜか借地だった。 「東京物語」…

原節子さん

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

役者の原節子は一皮かぶっているんじゃないかな

現役時代の原節子を語れる日本でも数少ないひとり、山内静夫さんは白樺派の文豪、里見弴先生の息子で、小津安二郎の映画プロデューサーで、鎌倉文学館の3代目館長だった方である。鎌倉の名士中の名士。 1925(大正14)年生まれの91歳。小津組には1949(昭和24)年の「晩春」から宣伝スタッフとして加わり、「早春」からプロデューサーを務め、遺作となった「秋刀魚の味」まで担当…

原節子

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

永遠の伝説となった精神の貴族

司葉子さんが原節子が亡くなる4カ月ほど前にぼくの取材にこう答えている。 いまも時々、電話で1時間ぐらい話しています。何から何まで話していますね。意外と政治にも詳しいんです。新聞を隅から隅まで目を通していらっしゃるんです。だから、話題はいっぱい。いつまでも話題が途切れないんです。 新聞報道によれば、世界情勢に特に興味を持ち、中東問題などについて親族と意見を交わすことも…

鎌倉といえば、やはり大仏様

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

何mか向こうで、原節子が息をしていると思うだけで感無量

数年前に原節子が施設に入所したという噂が流れたが、それはガセだった。偶然手に入れた、2005年11月25日発行の「ゆめクラブ鎌倉やまもも」という鎌倉の老人クラブの会員広報誌に、門田京蔵さんという方が原節子の近況を記している。 若き日、熊谷監督の友人M氏の家が稲村ケ崎にあり、原はM・H嬢とよく泳いだ。この人が節子小母さまの現況を聞ける唯一の情報源なのだ。七月中旬の電話…

原節子さん

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

公務員の初任給が6500円の時代に映画1本300万円

「麥秋」の出演を巡って原節子と小津安二郎にはこんなやり取りがあった。原と小津の間に入って取り次いだのは、シナリオライターで映画監督の沢村勉である。沢村は鎌倉の浄明寺の原節子の家のすぐ近くに住んでいた。沢村は義兄の熊谷久虎監督の映画の脚本も書いており、熊谷と親しく、その関係でよく原節子の家に行っていた。小津映画を見て映画界に入ったというほどの小津ファンである。原節子主…

原節子

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

大根役者説は本当か? 小津安二郎は再三否定した

原節子には小津安二郎の映画で、「紀子3部作」といわれる作品がある。紀子という名の役(それぞれ役柄が違う)を原節子が3作品演じた。「晩春」「麥秋」「東京物語」である。いずれも映画史上に残る傑作で、脚本は小津安二郎と野田高梧。野田は小津との脚本で「麥秋」を最も高く評価しており、「『東京物語』は誰にでも書けるが、これはちょっと書けないと思う」(「野田高梧 人とシナリオ」日…

原節子

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

恋愛はすべて義兄の熊谷久虎に潰された

すると翌日の昼下がり、のちに東宝映画社長になる映画プロデューサーの藤本真澄(さねずみ)さんが、その後ろから原節子さんが現れたんです。それから1年ほど、月に1、2回は従業員に暇が出され、建物が2人に提供されていました」 彼らの密室での過ごし方は、もはや知るべくもないが、12年に亡くなった堀川弘通氏は、 「藤本さんはのちに“節ちゃんと結婚しようと思っていた”と白状した」…

司葉子

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

司葉子が明かす意外なエピソードの数々

女優の司葉子さんは日本の映画人で唯一、原節子と接点があった方である。原節子がまだ健在だった晩春のある日、鎌倉の川喜多映画記念館で話を伺った。 「原節子さんと初めてお目にかかったときは、近寄りがたい感じではなく、普通の人だなと思いました。まさか自分が共演することになるとは思いませんでした。学生時代から原さんに憧れていたんです。『青い山脈』や『めし』などを見てました。 …

鎌倉の浄妙寺

「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子

映画「東京物語」の紀子役に込められた寓意

原節子の鎌倉の家とは熊谷久虎の家だったのである。原節子は鎌倉の家について、「近代映画」(1951年12月号)でこんなコメントを寄せている。 どうぞ、だけど、見た通りよ。下はこの通り一部屋だし、屋根裏を改造した中二階はベッドを置いた寝室、それで全部よ。何も隠しようもない位小さいんですもの。 内装は緑だったようである。原節子の家は鎌倉の浄明寺にあるのだが、どんな家なのか…

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