松尾潔
著者のコラム一覧
松尾潔音楽プロデューサー

1968年、福岡県出身。早稲田大学卒。音楽プロデューサー、作詞家、作曲家。MISIA、宇多田ヒカルのデビューにブレーンとして参加。プロデューサー、ソングライターとして、平井堅、CHEMISTRY、SMAP、JUJUらを手がける。EXILE「Ti Amo」(作詞・作曲)で第50回日本レコード大賞「大賞」を受賞。2022年12月、「帰郷」(天童よしみ)で第55回日本作詩大賞受賞。

『ティル』がいよいよ公開…米国の残酷すぎる史実が劇映画化される意義と意味

公開日: 更新日:

『福田村事件』と同年公開は偶然であって、偶然ではない

 7年後の1962年には、同年デビューしたばかりの若きボブ・ディランが事件を歌にした。その曲「ザ・デス・オブ・エメット・ティル」はセカンドアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』(代表曲「風に吹かれて」)への収録が見送られたが、1963年夏のワシントン大行進(キング牧師の名演説「わたしには夢がある<I have a dream>」で知られる)のステージに立ったディランは、同曲を堂々とパフォーマンスした。公民権法が制定されたのは翌年1964年のこと。だが言うまでもなく、2020年代の現在もなお同根の悲劇は世界中で起こっている。つまり『ティル』は〈いま〉を描いた映画、〈いま〉だから実現した映画化でもある。100年前の関東大震災での流言蜚語による虐殺を描いた森達也『福田村事件』と同じ年に劇場公開されるのは、偶然であって偶然ではない。

 学生時代にアメリカ黒人音楽に特化したライター業を始めたぼくは、卒論もブルーズとヒップホップがテーマ。もちろんこの事件の概要も知ってはいた。だが今回の映画を観て初めて気づいたことは多い。専門書の活字が立ち上がって人間にトランスフォームするさまを見届けるような、ぞくぞくとした体感。それを味わえるのは、史実が劇映画化される意義であり意味でもあるだろう。

 監督と脚本はナイジェリア出身のシノニエ・チュクウ。1985年生まれの彼女の作品を観るのは初めて。奇を衒わぬ演出は物語を単調にさせる危険性も孕んでいるが、重量感を伴うテーマを130分で描ききる技量は並ではない。スパイク・リー『ブラック・クランズマン』でも抜群の冴えをみせたマーシー・ロジャースの衣装が鮮やかで、最後まで目を飽きさせないことも特筆しておきたい。

 この映画が全米公開されてすぐの昨年11月、ぼくはNHK-FM「松尾潔のメロウな夜」で同作のサントラを紹介したが、そのときは日本での劇場公開を正直諦めていた。1950年代のアメリカ南部の憎悪犯罪(ヘイトクライム)に、どれだけの日本人が興味を抱くことができるというのか。ましてやウィル・スミスのようなスター俳優が主演を務めるわけでもない。長年アメリカ黒人文化に触れながら仕事をしてきた自分だからこその悲観があった。それだけに、劇場公開決定の報せには思わず声が出た。そして映画を観終えたいま、ぼくは嗚咽で声が出ない。

最新の芸能記事

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1
    「悠仁さまに一人暮らしはさせられない」京大進学が消滅しかけた裏に皇宮警察のスキャンダル

    「悠仁さまに一人暮らしはさせられない」京大進学が消滅しかけた裏に皇宮警察のスキャンダル

  2. 2
    香川照之「團子が後継者」を阻む猿之助“復帰計画” 主導権争いに故・藤間紫さん長男が登場のワケ

    香川照之「團子が後継者」を阻む猿之助“復帰計画” 主導権争いに故・藤間紫さん長男が登場のワケ

  3. 3
    「天皇になられる方。誰かが注意しないと…」の声も出る悠仁さまの近況

    「天皇になられる方。誰かが注意しないと…」の声も出る悠仁さまの近況

  4. 4
    巨人・菅野智之の忸怩たる思いは晴れぬまま…復活した先にある「2年後の野望」 

    巨人・菅野智之の忸怩たる思いは晴れぬまま…復活した先にある「2年後の野望」 

  5. 5
    渡辺徹さんの死は美談ばかりではなかった…妻・郁恵さんを苦しめた「不倫と牛飲馬食」

    渡辺徹さんの死は美談ばかりではなかった…妻・郁恵さんを苦しめた「不倫と牛飲馬食」

  1. 6
    鹿児島・山形屋は経営破綻、宮崎・シーガイアが転売…南九州を襲った2つの衝撃

    鹿児島・山形屋は経営破綻、宮崎・シーガイアが転売…南九州を襲った2つの衝撃

  2. 7
    「つばさの党」ガサ入れでフル装備出動も…弱々しく見えた機動隊員の実情

    「つばさの党」ガサ入れでフル装備出動も…弱々しく見えた機動隊員の実情

  3. 8
    女優・吉沢京子「初体験は中村勘三郎さん」…週刊現代で告白

    女優・吉沢京子「初体験は中村勘三郎さん」…週刊現代で告白

  4. 9
    ビール業界の有名社長が実践 自宅で缶ビールをおいしく飲む“目から鱗”なルール

    ビール業界の有名社長が実践 自宅で缶ビールをおいしく飲む“目から鱗”なルール

  5. 10
    悠仁さまが10年以上かけた秀作「トンボの論文」で東大入試に挑むのがナゼ不公平と言われるのか?

    悠仁さまが10年以上かけた秀作「トンボの論文」で東大入試に挑むのがナゼ不公平と言われるのか?