リアル二刀流を生んだ自信と末っ子気質とアタマ
■「菊池を高1で超えてやる」
大谷翔平は子供の頃から人一倍、負けず嫌いだった。
水沢リトル時代、全国大会に出場するも初戦敗退。試合後の集合写真には泣き腫らし、腫れぼったい顔をした大谷が写っている。味方がエラーすれば、マウンド上で腹を立てた。一関シニア時代も、試合に負けると目に涙を浮かべた。
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父親の徹さんは中学時代、陸上三種競技の岩手県大会で6位に入賞しながら、それでも野球に転向。例えば100メートル走では1位にならない限り他人の背中を見ることになる。それが嫌でたまらなかったからだ。父親の強烈な反骨心、好きな野球で他人に負けてたまるかというハングリー精神にも似た気持ちが大谷の原点にはある。
花巻東高3年時、春の選抜の初戦で藤浪晋太郎(アスレチックス)のいた大阪桐蔭に完敗。その藤浪から本塁打を放ったものの、投手としては8回3分の2を7安打7四球9失点と火だるまに。すると夏は取り返そうと、翌日から闘志むき出しで猛練習。山梨遠征では圧巻の投球を見せ、夏の岩手県大会準決勝(対一関学院戦)では160キロをマークした。
2009年、菊池雄星(現ブルージェイズ)を擁する花巻東が春の選抜で準優勝、夏もベスト4に。菊池の活躍は当時、中学3年生だった大谷たちの間でも大きな話題になった。
菊池に憧れて花巻東に進んだといわれるが、そうではない。気心の知れた同級生には「(菊池を)高1で超えてやる」と言っている。花巻東の練習スタイルを気に入っていたことに加えて、同じ環境、条件下で菊池を超えたいと思ったからだろう。
菊池について「高1で超えてやる」と言ったことからも分かるように、人に負けたくないという強い気持ちを支えているのが大きな自信だ。
■高校生離れした神経や考え方
高校3年時には日本のプロ野球を経ず、直接メジャーに挑戦すると公言した。それでもドラフトで日本ハムから1位指名され、結果として入団することに。1年目のキャンプから投打の二刀流にチャレンジした。
父親の徹さんは「人と同じようなことをしても、人と同じようにしかならない」と思っていた。父親の考えに影響されたのかどうか、高卒即メジャー挑戦も、投打の二刀流も、「人と同じようなこと」ではもちろんない。
しかし、例えば投打の二刀流は前例がなかっただけに波紋を呼ぶ。1人で2人分の仕事をするわけで、仕事を奪われる選手も出てくる。周りの目もあるだろう。少なくとも大谷の両親は「両方やって迷惑がかかりませんか?」「いじめられませんか?」と心配したらしいが、本人は当たり前のように二刀流にチャレンジした。
その辺りについて当時のGMだった山田正雄スカウト顧問は、日刊ゲンダイのインタビューに首をひねりながらこう答えている。
「『周りにピッチャー専門の人がいれば、野手専門の人もいるのに、そんなこと(二刀流)僕が最初からやっていいんですか?』とか、そういうことを言うじゃないですか、フツーは。けれども、何も言わなかった。もし悩みがあったりすれば、そのときは聞いてくるだろうと思っていたのに、まったく言ってこない。ですから結構、楽しくやっているのかなと。その辺、神経というか考え方は一般的な高卒選手じゃないですよね。よほど自信があったのか……。高校時代の清原和博とか松井秀喜のように甲子園で騒がれるような活躍をしたのであれば、あれぐらい打ったのだからオレだってプロでできるだろうと思うかもしれないけど、自信を持つほど高校時代には活躍していませんからね。いまだに、ああいうスタンスは何なのだろうと……」