五木寛之 流されゆく日々
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連載11531回 私の体験的養生論 <8>
(昨日のつづき) 今年も大過なく一年が過ぎようとしている。<大過>というのは、大きな過失、思いがけない失敗のことなどをいうのだろう。 仕事のことに関しては、<小過>はいくつかあった。この連載も…
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連載11530回 私の体験的養生論 <7>
(昨日のつづき) 最近、<サスティナブルな>などという言葉をよく目にすることがある。簡単にいうと<持続可能な>という意味らしい。 少くとも<持続>ということが問題にされるようになったことは、悪…
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連載11529回 私の体験的養生論 <6>
(前回のつづき) 何度も言うようだが、養生とか健康法は一律ではない。 人間が一人一人ちがうように、その人の体質、気質に適した養生法というものがある。いや、それしかないと言ってもいい。 Aの…
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連載11528回 私の体験的養生論 <5>
(昨日のつづき) 私はふだんあまり酒をのまない。あまりというのは、ほとんどという意味である。 私が新人の頃は、酒をのまない奴は作家じゃない、みたいな風潮がまだ残っていた。<文壇酒徒番付>などと…
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連載11527回 私の体験的養生論 <4>
(昨日のつづき) 健康と長生きとはちがう。 しょっちゅう体調を崩しながら長命の人もいる。頑健な肉体をもちながら短命な人もいる。 たとえどんなに貧弱な体でも、私は長く生きるほうがいい。 …
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連載11526回 私の体験的養生論 <3>
(昨日のつづき) 裸になって全身を鏡に写してみることがある。風呂に入る前と後と、ごく自然にそうするのが習慣になっているのだ。 何十年もそんな事をくり返していると、自分の体の現状がいやでも確認で…
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連載11525回 私の体験的養生論 <2>
(昨日のつづき) 今にして思えば、私はずいぶん変な子供だった。 まだ小学校にも上らない頃、大人に年をきかれると、 「満5歳です」 と、偉そうに答えていた。当時は<数え歳>といって、生れた…
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連載11524回 私の体験的養生論 <1>
恥ずかしながら今年の秋、90歳になった。<恥ずかしながら>というのは、格好つけでも謙遜でもない。正直なところ雑駁な人生だったと率直に思う。古い言葉ではそういうことを「馬齢を重ねる」などと言った。馬に…
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連載11523回 法螺を吹くということ <5>
(昨日のつづき) 近頃、大きな法螺を吹く人間がめずらしくなった。なるほど、と納得させられる論を展開する才人は少くない。華麗な論理を展開してみせる識者もいる。 しかし、それがホラと知りつつも、思…
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連載11522回 法螺を吹くということ <4>
(昨日のつづき) ふり返ってみれば、作家生活60年あまりの年月のなかで、私もずいぶん法螺を吹いてきた。 思い返せば、顔が赤くなるようなこともあったし、ふり返ることさえ恥ずかしい仕事もある。 …
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連載11521回 法螺を吹くということ<3>
(昨日のつづき) 私は本当のことをグジグジ呟く人よりも、元気なホラを精力的に吹き続ける人のほうが好きだ。どうせ作り話とわかっていても、一向にかまわない。 真実は、ありのままでは見えない。何かに…
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連載11520回 法螺を吹くということ <2>
(昨日のつづき) ゴータマ・ブッダ、仏陀と呼ばれた人は、神でも仏でもなかった。彼は卓越した人間だった。 小国とはいえシャーキャ族の王族の一員である。それなりの教養は当然あっただろう。 しか…
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連載11519回 法螺を吹くということ <1>
自分の書いた本について、その意図を説明する際に、前置きとして、 <自分の本のことを書くのは気が引けるが――>と書いたら、ある出版社の編集者に笑われた。 「いまの時代にそんなこと言ってるようじゃだ…
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連載11518回 オノマトペの威力 <2>
(昨日のつづき) 月並みという言葉は、江戸時代の俳諧の席から生まれたという説がある。 とりあえず批判的な言い方であることはまちがいない。 月並みなテーマ、月並みなストーリー、月並みな表現、…
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連載11517回 オノマトペの威力 <1>
<オノマトペ>というものがある。<オノマトペア>というのが正式らしい。一般に擬音語と訳される。 「雨がシトシト降っている」とか、「心臓がドキドキした」とか、「赤ん坊がギャアギャア泣く」などと、ふだん…
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連載11516回 サッカーと国民性 <3>
(昨日のつづき) 昨夜、というか今朝は、サッカーのテレビ中継を見終ってから寝たので睡眠がたりない。 以前、深夜人間だった頃は、午前零時などは、宵の口だったのだが。 朝7時半に起きて朝刊各紙…
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連載11515回 サッカーと国民性 <2>
(昨日のつづき) サッカーは走る競技である。それと同時に頭と感性の運動である。 古代日本にもボールを蹴るゲームはあった。<蹴鞠>というのがそれだ。当時の貴族の子弟らが好んでプレイした。平安末期…
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連載11514回 サッカーと国民性 <1>
先週、対スペイン戦に快勝した折りに、日本チームのメンバーや監督のインターヴューで、おや、と思ったコメントがあった。 今回の勝利はサポーターの皆さんの応援によってかちえたものです、と感謝の言葉をの…
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連載11513回 スポーツと国家の盛衰 <5>
(昨日のつづき) スポーツの階級性をいえば、卓球もまた庶民大衆のスポーツである。大正天皇が当時のピンポンを好まれたという話もあるが、もともと貴族や上流階級の遊びではない。テニスと卓球の関係は、囲碁…
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連載11512回 スポーツと国家の盛衰 <4>
(昨日のつづき) 対スペイン戦の中継は早朝の4時からだという。この2年あまり、早寝早起きの生活のリズムがすっかり定着している。午前4時といえば、白河夜船の最中だ。そこで暮らしのリズムを壊したら折角…
