保阪正康 日本史縦横無尽
-
20世紀前半の「戦争」の時代をどう受け止めればいいのか
山県有朋の議会は明治23(1890)年11月25日に召集されたのだが、その時の歳出予算は8300万を超えている。その内訳は徹底した軍備費で占めていた。施政方針演説でも、国家独立自衛の源は主権線として…
-
山県有朋による主権線と利益線から生じた「生存圏の拡大」
ヒトラーの野望はむろん、第1次世界大戦で失った領土、権威、秩序を回復し、さらには8000万のドイツ国民の生存のための空間を拡大することにあった。そういう生存圏の拡大のために人種問題が意図的に用いられ…
-
民主主義、独裁体制、社会主義…各国の代表者は何を求めたのか
第1次世界大戦と第2次世界大戦は連結している。つまり20世紀前半の人類史は、この大きな戦争を体験することで、その歩みを根本から変えてしまったということができるように思う。 日本は1914年か…
-
ポーランドを分割したヒトラーとスターリンの「陰謀」
日中戦争は結果的に近代日本の終焉を迎える引き金になった。この戦争の処理をめぐって、太平洋戦争が引き起こされ、日本は米国、英国などの連合国軍との戦争に入り、結果として崩壊の事態に至るのであった。昭和1…
-
東條英機内閣での反政府活動はまさに命がけの抵抗だった
斎藤は、除名に反対した代議士の名を日記に書き残している。岡崎久次郎(民政党を離党)、牧野良三(政友会)、芦田均(政友会)、名川侃市(政友会)、宮脇長吉(政友会)、丸山弁三郎(政友会)、北浦圭太郎(第…
-
昭和15年3月7日、賛成296票で斎藤隆夫の除名が決まった
衆議院が「斎藤隆夫除名」を行うプロセスを見ていくと、すぐに2つのことに気がつく。ひとつは親軍派の代議士のあまりにも弱い姿勢である。彼らは軍の意向、思惑、恫喝を恐れて、とにかく議会から斎藤を追い払って…
-
軍人、政党を敵に回した「反軍演説」斎藤隆夫は除名処分に
斎藤隆夫の演説の中には、次のような一節もあった。 「我々が支那事変の処理を考うるにあたりましては、寸時も忘れてならぬものがあります。(略)この間におきまして我が国民が払いたるところの犠牲、即ち…
-
立法府の土性骨を示した斎藤隆夫の「反軍演説」
これまで日中戦争のさまざまな局面を描いてきたのだが、軍事が先行している構図は国の方針がひたすら直線的に進むことを意味していた。軍事で制圧すれば、自在に中国を支配できるとの考えは、歴史に対する無知を証…
-
三笠宮殿下は東條英機暗殺未遂事件への曲解について語った
三笠宮殿下は、東條暗殺未遂事件がご自身のルートから漏れたと言われている史実に、それは違うとのお考えを持たれていた。お約束の日に、私はその事典を刊行した出版社の役員らと宮家を訪ねた。殿下はいくつかの資…
-
議会帰りの東條首相・陸相をクルマごと吹き飛ばす暗殺計画
大本営参謀のTは、昭和19年7月に支那派遣軍から大本営に赴任した。改めて戦況の詳細を綴っている文書を読んで、もう戦争を続ける状態にないことを知った。東條首相・陸相はそういう事実を隠蔽して、講和の模索…
-
太平洋戦争下 具体的に進んでいた東條英機暗殺計画の内容
太平洋戦争下において、政治、軍事の大権を付与された形になり、東條英機はまさに独裁的な権力体制を敷いた。自分に反対するのは昭和天皇に弓を引くことだと公言し、戦争政策に反対、あるいは講和を主張する者を徹…
-
政治や軍事の中枢からも東條英機“暗殺計画”が持ち上がった
石原莞爾の東條批判はつまるところ、指導者の条件を満たしているわけではないという点に尽きた。石原は現役の軍人でありながら、東亜連盟という組織をつくり、日本と中国が中心になってのアジア建設をうたっていた…
-
「戦陣訓」をめぐる東條英樹、石原莞爾の対立
石原莞爾と東條英樹の対立について、もう少し詳しくふれておきたい。この対立が昭和陸軍の帰趨を決めた側面もあるからだ。 石原は参謀本部の作戦部長という要職を占めたにもかかわらず関東軍参謀副長に、…
-
自分の意見と対立する者に悪口雑言を投げつけた石原莞爾
ここで日中戦争時の史実から離れて、昭和10年代の日中戦争、太平洋戦争の折の昭和陸軍内部における、ある対立の構図を示しておきたい。東條英機と石原莞爾の対立、あるいは衝突がこの時代の陸軍の基本的な矛盾を…
-
石原莞爾いわく「東條英機と梅津美治郎こそ日本の敵だ」
不拡大派の中心にいた石原莞爾について触れておこう。盧溝橋事件から2カ月半ほど後に石原は関東軍参謀副長に異動となった。拡大派の陸軍指導部の杉山元らが、同じく拡大派で何事も強硬策しか取らない東條英機(参…
-
軍が演出した南京陥落の歓迎デモを秩父宮殿下はどう見たか
日中戦争が長期持久戦になっていく事態に、日本国内は一気に戦時体制にと変わっていった。国民は耐乏生活を余儀なくされ、次第に軍事が中心の国家へと変貌していった。「欲しがりません、勝つまでは」といった類い…
-
大川周明は精神錯乱状態に「恨み」で東條英機の頭を叩いた
これは田中隆吉の書(「敗因を衝く」)からの引用になるのだが、大川周明は和平工作の障害は、軍内の強硬派のゴリ押しにあると考えていたようであった。次のようなエピソードを紹介している。汪兆銘政府ができた後…
-
指相撲、腕相撲を経て日中戦争はまさに「大相撲」の様相に
この頃、近衛首相が陸軍の中堅将校に執拗に脅かされていたとの証言もあった。近衛が和平の動きを進めるとの情報が入ると、「(陸軍内部の結社である)皇戦会を握る青年将校は、サーベルをもって近衛首相を恫喝した…
-
「英霊に申し訳ないではないか」という声であふれた
汪兆銘を引き出す折に、影佐禎昭や今井武夫は、平和回復後の2年以内に「日本軍は支那から撤兵」との約束を伝えていた。このほかにも満州国の承認などといった条件があったにせよ、この撤兵というのは汪兆銘側にと…
-
謀略型軍人の態度を変えさせた石原莞爾の日中戦争不拡大論
汪兆銘担ぎ出し工作の日本側の裏面史を語っておくことにしたい。この中心になったのは、上海で影佐機関を動かしたこともある影佐禎昭であった。担ぎ出し工作の始まりのときは、参謀本部の第8課の課長であった。第…