池乃めだか芸歴60年を振り返る(前編)続けられる理由は「ひ(し)つこいからとちがう? なんとなく惰性かなぁ…」
「この世界甘いもんやないからやめとき」
──中学卒業後は三洋電機に入社。海原小浜に弟子入りしようとした過去も。
海原小浜師匠につてのある人がいたので「紹介してよ、弟子にしてもらお思うてんねん」って言うて、師匠を紹介してもらって。それで会いに行ったら「この世界甘いもんやないからやめとき。大きな会社いてんねやから、マジメに頑張ったほうがええよ」って言われて、とはいうても、ハイハイてー引き下がるわけにいかへんから粘ったけど。そしたら、どっかで弟子入り志願したのを聞いた人がいて、3人でやってたグループが1人逃げておれへんから、そこの後釜に入った。それが音楽ショーバンド「ピスボーイ」やったんです。
──1968年にピスボーイに加入し芸人としてスタート。大手企業のサラリーマンを辞めることに躊躇はなかったのか?
あんまりなかったね。自分で言うたってことは、こっちのほうが面白そうに思うたんかな。自分で決めたら後ろを向くタイプじゃないから、なんも考えんと流れに任せて進んだだけ。
──音楽ショーバンド「ピスボーイ」から、海原小浜の息子で、海原やすよ・ともこの父でもある海原かけると漫才コンビ「海原かける・めぐる」を結成する。
芸の世界に入って、13年で解散になって、小浜師匠に報告しに行ったら「じゃ、どうすんの? これから?」「元のサラリーマンに戻って仕事探すわ」言うたら「ウチの息子が来月解散すんねん、どうや?」って誘われて「はい~」て。そこから、漫才になって、吉本に移った。
──1972年にコンビで吉本に移籍。移籍することに苦労はなかったのか。
そら、天下の吉本に来てんねんから、笑いとらなきゃとは思ったね。怖い先輩はぁ、いたんかなぁ。先輩方にもごちそうになったけど、もう忘れてもうたわ。80過ぎると記憶力飛んでしまうから(笑)。覚えてないちゅうことは、(先輩は)そう怖くもなかったんやろね。
──1976年にコンビからピン芸人「池乃めだか」に改名し、吉本新喜劇に入団。ようやくブレークの兆しが。
10年くらい漫才やって、コンビ分かれて、1人になったとき新喜劇に入れてもらったんです。吉本の社長に目かけてもろて、応援してくれて、そうこうしているうちに寛平ちゃんとの出会いですよ。(後編につづく)
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