保阪正康 日本史縦横無尽
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チャーチルが23歳で書いた架空国家の「独裁」と「革命」の話
チャーチルの人生は多くの変化に富んでいた。貴族の家系に生まれ、感受性と冒険心に富む少年時代を過ごし、学校嫌いで成績はビリ。士官学校に入るのに3回も落ち、呆れた親が徹底して勉強させた結果、4回目にやっ…
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チャーチルはスターリンを疑いながらも連帯の挨拶を送っていた
チャーチルは首相に就任すると、保守党内閣としては極めて度量のある内閣を作った。労働党からも3人の閣僚を入閣させ、自身も国防相を兼ね、いわば挙国一致内閣を組閣したのである。これまで書いてきたように、チ…
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ドイツUボートの指揮官は人道的に行動した
第2次世界大戦に海軍大臣として、戦争指導に身を挺することになったチャーチルは、開戦時の演説(1939年9月3日)で、自由と権利を取り戻し、この恩恵を受けたことのない人々に分かち合える日が来ると信じて…
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チャーチルが気づいた二度の世界大戦の本質的な「違い」
チャーチルはヒトラーと融和政策を取ろうとしていたチェンバレン首相の政策をひとまず慰めたのである。我々の心の良心は平静であると言った後に、父祖に恥じない国民であることの証明をしなければならないとも言う…
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「言葉」を駆使した政治家・チャーチルの自信は英国民の励ましになった
戦間期の指導者論を確認しているわけだが、ルーズベルトの後はチャーチルを見ていきたい。チャーチルは第2次世界大戦の指導者として一貫してヒトラーと戦い、その姿勢は最後まで揺るがなかった。加えて生来の文筆…
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ルーズベルトとチャーチルの「友情」は米英の議会で追及された
ルーズベルトとチャーチルは、単にアメリカとイギリスの指導者という意味で親しいわけではなかった。遠い先祖をたどれば、メイフラワー号でアメリカに渡ったJ・クックという人物の流れをくんでいる。縁戚に連なる…
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ルーズベルトの不寛容な恐ろしさに日本人は気づかなかった
ルーズベルトが太平洋戦争の間、日本について論じる時は極めて露骨な表現を用いた。むろんドイツについても、極端な論で語った。「ドイツ人には今度こそ敗戦国ということをわからせる」と怒りの口調で語った。第1…
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東條英機が予期できなかったルーズベルトの「日本壊滅」
ルーズベルトは真珠湾攻撃を受けた日から、しばらく議会や国民向けの演説、記者会見などでも、「日本の計画的侵略にどれほどの時間がかかろうとも正義の力で全面的勝利まで戦い抜く」と繰り返した。全面的勝利とは…
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ルーズベルトは日本の無警告の攻撃を予測していた
ルーズベルトは心中で、イギリスの苦境を救う、あるいはフランスを含めての連合国の側に立ち、ドイツのナチズムとの戦いに加わるのは歴史的に必然と考えるようになっていた。そのため1941(昭和16)年に入る…
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アメリカ国民が第2次世界大戦への参戦に及び腰だったワケ
1939(昭和14)年9月1日に第2次世界大戦が始まったが、この戦争にアメリカ国民は冷静かつ客観的に対応していた。この国がもう戦争に巻き込まれるのはごめんだ、というのが国民心理であった。翌年の大統領…
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英チャーチル首相と米ルーズベルト大統領は遠縁の親戚だった?
何度か引用することになるのだが、ジョン・ガンサーは第1次世界大戦、第2次世界大戦のいずれをも見つめたジャーナリストであった。それゆえに彼の著した名著(例えば「現代ヨーロッパの内幕」など)を引用するこ…
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児玉誉士夫はアヘン密売の実態を証言するよう、田中隆吉から脅しを受けた
戦間期の政治指導者論として、アメリカのルーズベルト大統領について触れてきた。ルーズベルトと近衛文麿首相の首脳会談のエピソードを紹介しているが、横道にそれたついでにもうひとつサイドストーリーを語ってお…
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児玉誉士夫が参謀本部にいた辻政信から依頼された「近衛文麿暗殺計画」
近衛・ルーズベルト会談は結局は失敗したのだが、この会談の背景に見え隠れしているアメリカ側の事情、日本側の事情についてあえて触れておこう。日米関係は歴史的には全く修復不可能の状態になっていたのである。…
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日米首脳会談、ルーズベルトは「無意味」と判断した
戦間期、日本の政治指導者は他国の政治責任者とただの一度も首脳会談を行ったことがなかった。各国はしばしば顔を突き合わせて懸案を話し合うことがあった。ヨーロッパの国々は地理的にも会見が可能であったが、日…
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勇気、忍耐など…ルーズベルトが有していた政治家としての「5つの資格」
フランクリン・D・ルーズベルトは、アメリカの32代大統領として戦間期のもっとも難しい時期を担った。大統領に就任したのは、図らずもヒトラーと同じ1933(昭和8)年である。以来、45年5月に亡くなるま…
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ムソリーニの死体は唾を吐きかけられ、逆さ吊りにされた
戦間期の独裁者は、鉄のような心と何事にも動じない強靱さを持つがごとくに語られてきた。レーニン、スターリン、そしてヒトラーらも当時はそのようにみられていた。歴史を変えるのはそのような人物なのだと、一般…
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イタリアはムソリーニを逮捕しヒトラーとの戦いに方向転換した
ムソリーニは、ヒトラーから強い連帯を受けて大きく変わった。歴史的に変節漢呼ばわりされるようになるのは、ヒトラーとの枢軸体制を企図してからだった。1936年にはローマとベルリンで中心軸をつくり、それを…
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ムソリーニは英仏とともに反ナチスの共同戦線を模索した
ムソリーニのヒトラー嫌いは1930年代にヒトラーが政治権力を握り、独裁体制を強める時期から徹底していった。逆にヒトラーをはじめナチスの側は、ムソリーニのファシズム体制を参考にしていて、その一党支配の…
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ムソリーニは必要以上に神話をつくり、国民に見抜かれて人気を失う
ムソリーニには真の友人はいなかったとの説がある。確かに多くの知己は持っていた。しかし心を許す友人、知人はいなかったというのだ。実弟のアルナルドだけを信用して、ローマに住むアルナルドにミラノからよく電…
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イタリア国王エマヌエーレ3世に衝撃を与えたムソリーニのローマ進軍
ムソリーニは雄弁家であった。イタリアでは政治家も演説の中に哲学的、文化的な一節や一句を挟むことが望まれた。特に歴史的な比喩などが喜ばれた。ムソリーニはそれだけの知性があった。イギリスの思想家、評論家…