浜村淳(1)同志社大放送部時代が“しゃべり”の下地をつくった
「転機」が訪れたのは、1955年の関西六大学野球の前夜祭だった。各大学の軽音楽部の出演に、各放送部の学生が曲などを紹介する。順番がやってきた時に、ライバル校から激しいヤジが飛び、担当者が耐えきれずに降板。突然、浜村に、役が回ってきた。そこで「面白くやってやろう」と、リズミカルな「浜村節」を披露。会場はシーンとなった。
これがきっかけで、ジャズ喫茶から、司会業のバイトが舞い込む。店の演奏者は渡辺プロに所属の、売り出し寸前のクレージーキャッツやマヒナスターズ。当時社長だった渡辺晋から「司会に合っている。オレと一緒にやろう」と誘われた》
(2010年6月10日付「この人物のオモテとウラ」)
その後、一度は就職するも、テレビの司会に。ところがあまり成果は出なかった。60年代後半、実家のある関西に拠点を移し、74年に「ありがとう」がスタートした。まさか52年間に及ぶ長寿番組になるとは思いもしなかったという。
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