保阪正康 日本史縦横無尽
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無条件降伏とは他民族への征服哲学を捨てること
無条件降伏は第2次世界大戦の後半期には重い意味をもつことになった。アメリカの国務省では日本軍との開戦当時から、どういう形で勝利を収めるか、そのときの条件はどのようなものかを内々に検討を続けていた。無…
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カサブランカ会談で議論を呼んだルーズベルトの「無条件降伏」
B29による日本本土爆撃、そして日本軍による特攻作戦、さらにレイテ沖の敗戦と、日本の敗戦は明らかな状況になっている。しかし、日本の軍事指導者は戦況逆転の思いを持ちながら一億総特攻を呼号して、戦いの継…
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大戦果を信用せず絞首刑になった山下奉文の怒り
台湾沖航空戦は結局は全く事実とはかけ離れた発表で、日本国民に告げられた。大喜びはまさに実体のない喜びであった。アメリカ軍の太平洋艦隊を壊滅させたがごとき戦果は、全くの虚報にすぎなかった。 「実…
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昭和19年10月の台湾沖航空戦の「大戦果」には日本中が大はしゃぎした
個々の戦闘や海戦では敗北ばかりが続いている。その状況で国民の間には、強いストレスがあった。戦時指導者も偽りの報告をもとにして、「大本営発表」を国民に伝えていたが、彼らとて次第に何が真実なのか、わから…
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アメリカ軍がB29に積んでまいたビラで日本の虚構集団化が分かった
サイパンの陥落によって戦略が新しい段階に入っただけでなく、情報合戦も一段と活発になっていった。アメリカ軍はサイパンにラジオ局をつくり、自国の兵士を励ますだけでなく、日本軍兵士に向けて捕虜になるよう勧…
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反戦を口にしただけで密告・検挙された時代
清沢洌の「暗黒日記」は、戦時下における知識人の身の処し方を示す教科書のようなものだ。清沢は国際情勢に通じている評論家であり、そのリベラルな体質で戦時下社会をよく見ていた。同時にこの戦争の持つ問題点を…
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「アメリカの戦略」ドライなコスト計算を支えた納税者への報告義務
アメリカの軍事指導者は、最初は確かに軍事爆撃を進めていたが、軍事の指導者の間には、日本の軍事産業は大企業型の工場での航空機生産は限られていて、都市に集中した家内制工場のような町工場での生産が多い。そ…
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飛龍によるサイパン攻撃は23機のB29に損害を与えた
日本上空に飛来するB29に対して、日本側も反撃したいのは当然だが、実際は物量的に反撃する余裕が失われていた。マリアナ諸島が制圧されれば、日本はもう勝ち目がないことは軍事的に明らかであった。加えてアメ…
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「復讐は快いもの」本土爆撃、ライフ誌が紹介したパイロットたちの証言
アメリカ軍の日本本土爆撃は、昭和19(1944)年6月ごろから主に中国の成都から爆撃隊を編成し、八幡製鉄所などを狙って始まった。こうした攻撃は「空の要塞」と言われたB29の開発に成功し、アメリカの戦…
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女子学生によるB29を迎撃する高射砲の角度計算は正確だったのか?
東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)の数学科の学生らによる試算が正確だったのか否かは判然としない。私が当の女子学生たちから「私たちの計算はどうだったのでしょうか」と尋ねられたのは、昭和の終わり…
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大本営に呼ばれた学生らの三角関数による計算の目的は、B29撃墜だった
マリアナ諸島から飛び立ったアメリカ軍の爆撃機は、日本本土の主要工業地帯を徹底して狙い続けた。軍事用語では「戦略爆撃」とも言われるのだが、具体的には軍需生産に関わる一切の工場、通信、輸送、さらには交通…
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敗北を信じる日本人は昭和19年12月の10%だったが、昭和20年8月には68%に急増
米軍はサイパン陥落に続いて、隣の島というべきテニアン島、さらにはグアム島へと上陸作戦を行った。これらの日本軍守備隊も事実上、玉砕という形になり、アメリカ軍はこの3つの島の航空基地から、日本本土爆撃を…
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アインシュタインと日本の科学者の共通点
軍事指導部と科学者の対立は昭和19年7月のこの時も、それ以後も表立って論じられたことはない。しかし戦争しか考えていない軍事指導者の目に、このウラン爆弾は威力があるとすればするほど魅力的な武器に映った…
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「日本がウラン爆弾を持ったら、より悲惨になった」と断言した将校もいた
サイパン陥落時のそれぞれのウラン爆弾への態度はさまざまに揺れていた。しかしあえて分けて考えると以下のようになった。 1、仁科芳雄研究室所属の科学者──原理の研究はする。開発製造の研究は行う。 …
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サイパン陥落で「何が何でもウラン鉱石を探せ」との命令が…
陸軍の兵器行政本部の第八技術研究所で技術将校だったYは、軍に徴用される前に理化学研究所の研究員を務めていた。東京帝大で鉱物資源について学んだ。理化学研究所では仁科の研究室ではなかったものの、研究員仲…
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「ウラン爆弾は精神力で開発できる」という見方
田中館愛橘の貴族院での質問は、この年(昭和19年)に2回にわたって行われているが、そのひとつは国語問題であった。もともとローマ字論者の田中館は、そのような内容を質問できる時代ではないことは承知してい…
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軍人たちが言い回った「神風が吹く」は、ウラン爆弾への願望だった
軍事指導部は決戦兵器と称して、ウラン爆弾に強い関心を寄せていた。といってもその詳しい内容を知ることはなく、「マッチ箱一箱のウランで、街を吹き飛ばすような新兵器が開発されている」という噂を信じていたの…
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陸軍幹部はウラン爆弾の仕組みを知り「早く決戦兵器を造れ」と命じた
アメリカがマンハッタン計画のもとで、本格的にウラン爆弾の製造に乗り出したのは1941年12月だといわれている。膨大な予算と人員、加えてウラン235をウラン鉱石から抽出するのに要する鉱石の全体量など、…
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アインシュタインは「ヒトラーに原爆を持たせてはならない」と懇願した
第1次世界大戦の毒ガスと、第2次世界大戦の原子爆弾は極めて残忍な殺人兵器であった。国家総力戦になって、戦闘員や非戦闘員の区別なく殺害の対象になったのは、特に原子爆弾が登場してからであった。 …
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海軍でも進んでいた「東條暗殺計画」高木惣吉は強い不信感を抱いていた
陸軍内部に東條暗殺計画があったように、海軍内部にも、そして民間側にも同様の計画があった。具体的な内容を伴っていたかとなると、すでに紹介したように陸軍の参謀と石原莞爾系の東亜連盟の会員による計画がより…