保阪正康 日本史縦横無尽
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吉田茂は憲兵隊の電話盗聴や尾行される中、近衛文麿に極秘書簡を送った
昭和15(1940)年の9月ごろから翌16年の初めにかけて、近衛文麿内閣を支える親英米派の要人たちは極めて精力的に動いた。近衛を中心に政治を動かすのが最も天皇の意思に沿っているからというのが理由でも…
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親英米のふりを続けた松岡洋右外相 次第に本心を明かしていく
昭和史の中で近衛内閣の評価が高くないのは、松岡洋右外相を使いこなせなかったこと、そして陸軍の強硬派を代弁するだけの東條陸相を罷免できなかったことに尽きると言えるだろう。松岡と東條は昭和史の中で最も責…
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近衛文麿と共に冷静な分析の声がかき消された時代
近衛文麿内閣の動きを見るときに、私たちはその心情の細部にわたって検証することを怠ってきた。理由はいくつもある。ひとつは近衛自身が昭和20(1945)年12月に自殺して、一切の弁明を拒否する姿勢を貫い…
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大政翼賛会と皇国史観の継承の役を担わされた近衛文麿の悲劇
昭和15(1940)年7月に第2次近衛内閣を組閣してからの近衛文麿は、自分に欠けているのは、自らを政治的に補佐する与党勢力の確保と理解していた。そのため大政翼賛会を設立し、その国民的支持基盤を厚手に…
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日本軍は第2次世界大戦へ 軍部が天皇に仕掛けた必至の政治ドラマ
近衛文麿は昭和10年代の日本の政治を担うには、あまりにも神経質すぎるきらいがあった。その知性、識見、それに社会観は当時の日本にあっては、他の誰にも負けないほどの優れた能力ともいえた。しかし他人を押し…
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東條英機と松岡洋右を内閣に起用した近衛文麿の計算違い
昭和15(1940)年という年は日本にとって岐路に立った年である。この年に日本は国策の方向を明確にして、翌年からの太平洋戦争への道筋をはっきりと示した。米内内閣は海軍の出身らしく陸軍の主張するドイツ…
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近衛文麿は「観念右翼一派」と「親軍派」の動きに脅威を感じた
ナチスがポーランドに入って第2次世界大戦が始まり、日本はその電撃的な攻撃に酔いしれた。軍部や国民の中からもヒトラーに呼応しろという声が高まり、アメリカやイギリスに強い態度で交渉せよと叫ぶようになった…
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駐日アメリカ大使のグルーが分析した戦前日本の3グループ
独ソ不可侵条約が結ばれ、日本はなすすべもなく呆然とした状態になった。体よくいえば、ヒトラーとスターリンの野合にいいように利用されたのだが、日本陸軍の指導者はこの不可侵条約にヒトラーとスターリンが自ら…
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第2次世界大戦の導火線となった独ソ不可侵条約…政府、軍部が直面した5項目の選択肢
英米可分論か不可分論かは、結局は日本の運命を決定することにもなるのだが、この論の推移を見ると、日本社会のずさんな、そして自己本位な見方が浮き彫りになってくる。都合の良い思い込みで事態を理解することに…
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陸軍と海軍が対立した英米の「可分論」と「不可分論」論争
チャーチルに対して、日本はその実像をほとんどつかんでいなかった。チャーチルの政治目的や戦争観などを全く確かめる余裕がなかったといってもよかったのだ。チャーチルとルーズベルトの間柄がどのようなものか、…
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第2次大戦の真の勝利者、軍人が束になってもかなわないチャーチルの雄弁術
第2次世界大戦はつまるところルーズベルト、チャーチルの連合軍と、ナチス、日本軍国主義との戦いであったと言っていいだろう。連合国軍と枢軸体制の戦いとか、ファシズムとデモクラシーの対立といった構図が示さ…
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チャーチルは「わがままで悪い教育を受けた子供の観念」「戦争が大好き」
アメリカの軍事指導者の中には、ルーズベルトやチャーチルが第2次世界大戦の真の意味を理解せずに、スターリンに過剰な役割を与えてしまったことに不満を持つ者が多かった。特にチャーチルはルーズベルトを巧みに…
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第2次世界大戦の勝者はスターリンだけだった
アメリカの軍事指導部に位置する軍人は、共産主義をナチズムやファシズム、さらには日本の軍国主義に匹敵する「敵」とみていた。独ソ戦はあるところまで、アメリカやイギリスは傍観的であるべきだったというのであ…
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チャーチルから見れば日本の軍人たちは子供も同然だった
太平洋戦争のアメリカ側の目的はどこにあったのだろうか。生粋のアメリカ軍の軍人はどのような判断を持っていたのか。そのことを確認するために、私はあえてアメリカの戦略部門に関わっていた軍人(ここで紹介して…
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アメリカは戦争の原因を除去する大戦略に欠けていた
実は日本の真珠湾攻撃による対米英戦争は、新しい形の戦争論を生み出していたのだ。私たちはこの事実をこれまで一顧だにしてこなかった。戦争論というほど高度の理論というわけではないにせよ、新時代を予兆する戦…
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ルーズベルトの秘密計画は「シカゴ・トリビューン」紙によって意図的にスクープされた
アメリカの政治指導者と軍事指導者は、基本的にはモンロー主義の方向に立っていた。1939年9月から始まった第2次世界大戦に、アメリカの青年をヨーロッパまで送って戦闘に参加させることには及び腰であった。…
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欧米の戦略論にみる特徴 他国同士を戦わせた後に出兵した英国のピット首相
欧米の戦略論はある特徴を持っている。たとえ軍人であろうとも、戦争そのものをできれば避けるべきという考え方を土台にしていることだ。それは特に第1次世界大戦後の戦略論にうかがえる。戦争の残酷さ、あるいは…
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独ソが共倒れし、米英がヨーロッパの勢力図を確立するという密かな計画
ウェデマイヤーの回想録は、ルーズベルトやチャーチルを極めて辛辣に批判している。彼らの戦略には全体的な歴史観がないようだとの視点で、その戦争観を俎上に載せているのだ。 軍人として教育を受けたウ…
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プーチンのウクライナ侵攻と日本の「支那一撃論」の共通性
これまでプーチンのウクライナへの軍事侵略が20世紀の帝国主義的戦争の教訓に全く学んでいないという事実を指摘してきた。彼の頭にあるのは、スターリンのつくったソ連という社会主義体制の中心軸を再現して、ロ…
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「正義の兵士集団」の現実は…ウクライナ侵攻まで続く赤軍兵士の妄信
独ソ戦におけるソ連の赤軍は、確かに勇猛果敢に戦った。これは祖国をドイツに渡したくないという強い意志の故でもあったが、同時にナチスへの脅威のためでもあった。各種の書によると、赤軍兵士の中には命が惜しい…