保阪正康 日本史縦横無尽
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陸軍幹部もだまされた「水を石油に変える」化学薬品のウソ話
この頃(昭和16年秋のことだが)、アメリカとの開戦を巡って、陸海軍の軍令部門の参謀たちはかなりの焦りを示していた。そのためこれまで語ってきたように、商社のビジネスまでも監視していたのだ。 ほ…
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将校たちは商社員に化けてマレーに侵入して石油生産を克明に調べた
陸軍省の将校Mの商社回りは半ば恫喝であった。「国策は石油の備蓄量がないと言って戦争やむなしに傾いている。それなのに余計なことをするな」というのであった。昭和16(1941)年の9月からは商社の石油担…
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東條英機内閣が誕生し、陸軍省のM将校が担当した石油調達の裏事情
昭和16(1941)年10月17日に東條英機内閣が誕生した。近衛文麿が内閣を投げ出すような形になったが、天皇と内大臣の木戸幸一は、開戦を急ぐ陸海軍の強硬派をなだめるため、強硬な開戦論者である東條を使…
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開戦理由の石油備蓄量 実は誰も数字を知らなかった
私は昭和史を足で書こうと思い、多くの人に戦前・戦時下の話を聞いてきた。むろん軍人をはじめ、さまざまな人たちの証言を聞き、こういう話は歴史的にあまり語られていないなとか、こんな話はありうるのかというよ…
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真珠湾攻撃の「騙し討ち」は日本と戦う世論を盛り上げるための米国の罠だった?
昭和史の資料は実際にはほとんど出尽くした感がある。最近は当事者の孫の世代が納屋や倉庫を片付けようとしたら、祖父の資料が出てきたという類いの話が多い。時にはそういう資料をどのようにすればいいか、相談が…
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東京裁判検事団の関連資料に改竄の疑いあり
この「福沢重信」氏と私が出会った可能性のある企画は3つ考えられた。ひとつは昭和の終わり頃に徹底した取材を行い、著作として著した「秩父宮」であった。もうひとつは「真珠湾から50年」という記事をある月刊…
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「福沢重信」が私に手紙を送ってきた理由は5つある
私はこの「福沢重信」氏を外務省か宮内省の中堅職員で、さらに占領初期には終戦連絡局(終連)に出向していたように思う。外務省の職員として、東京裁判について日本とGHQ、検事団、弁護団などとの連絡に当たっ…
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昭和天皇が疎開中の皇太子に送った手紙は外国人が書いた偽書なのか?
天皇の侍従であるMが、東京裁判時に天皇から皇太子に宛てた手紙を公開したのは、むろん天皇が今次の戦争にいかに消極的だったかを示すためだった。この手紙は裁判時には却下されたのだが、その内容については一般…
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敗戦時に天皇が皇太子に宛てた手紙は本物だったのか?
この人物(「福沢重信」)について、実は私も全く調べなかったわけではない。何しろ書いてあることは、東京裁判の裏側(新聞報道されなかった史実やGHQが掲載禁止にした文書など)の一般には知られざる事実が記…
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「東京裁判の資料にはいい加減なものもあった」というが…
「福沢重信」とは何者なのか。この匿名氏は意外なほど東京裁判の内実や天皇周辺、それに軍事の中枢に通じている。何者なのだろう、と私は興味を持った。 「福沢重信」氏は「昭和天皇独白録」の原本の表紙には…
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「独白録」の目的はA級戦犯を内輪揉めさせることだったのか?
「福沢重信」氏の書簡をもとにさらに記述を進めていくことにしよう。 「昭和天皇独白録」は実は東京裁判の法廷で、日本側の被告同士を争わせ、そして昭和天皇の責任を問わないという方向を考えていたように思…
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「福沢重信」からの書簡には、「独白録」には天皇の重要事が欠落しているとの指摘が
「福沢重信」からの書簡(平成3年1月2日付、消印)をもとに記述を進めていく。 「昭和天皇独白録」は、天皇の直話に接した5人のうちの一人である寺崎英成のまとめた書である。これが東京裁判用か、それと…
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匿名の書簡「福沢重信」氏が明かした昭和天皇の陸軍への不信
書簡の送り人の名は「福沢重信」とある。住所は書いていない。東海地方のある市の消印が押してあった。福沢重信というのは、明らかに福沢諭吉と大隈重信を意識しての名である。実はこの名で昭和から平成に変わる時…
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平成始まっての世紀のスクープ「昭和天皇独白録」なぜ31年前に公開されたのか?
さて、これまで戦間期の各国の指導者像を見つめてきた。このほか日本近現代史の折々の時代の実相を確認することで、日本社会の本質はどこにあるかを考えてきた。 ありていに言えば日本人は極めて直線的に…
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蒋介石の告示「怨みに報いる怨みをもってせず」に日本兵は涙した
蒋介石の性格や歴史上の位置について、断片的に語ってきた。歴史に幾つかの足跡を刻んだだけに特筆される資質を持っている人物であった。その資質は日本人の間で語り継がれる面も持っていた。 日中戦争に…
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ルーズベルトと蒋介石に隙間風が吹いたカイロ会談
蒋介石は中国にあって抗日戦争の指揮を執っていたため、外国に出るということがほとんどなかった。その彼が1943年11月に、ルーズベルトとチャーチルとの3者会談を呼びかけられ、エジプトのカイロに赴いた。…
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ルーズベルトからの電報に屈辱を感じ執務室で大泣きした蒋介石
蒋介石とアメリカ軍の関係が極めて悪化していたケースをさらに取り上げてみたい。 1944年の6月から7月にかけて、ルーズベルトはいささか腹の立つ日々を送っていた。アメリカ軍はヨーロッパ戦線でド…
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もし日本がアメリカに融和的な姿勢だったら歴史は変わったか?
蒋介石とチャーチルはハルノートに自分たちの意向を盛り込むことに成功したのだが、実は蒋介石は必ずしもアメリカ大統領のルーズベルトや国務長官のハルと良好な関係を維持していたわけではなかった。ルーズベルト…
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蒋介石の日本軍壊滅作戦は容赦のないものになった
蒋介石の人物論を検証していく時に、いくつか忘れていけない前提があるように思う。私は平成11年に蒋介石の評伝(文春新書)を書いた。その折に台北に何度か取材に行ったし、北京にも赴き、そこで発行されている…
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「ハルノート」はチャーチル、蒋介石の連携で強硬化した
蒋介石の人生には他にもいくつかの山があるように思う。あえてもう一点、挙げておこう。 昭和16(1941)年11月のアメリカと日本の外交交渉で、アメリカ側がハルノートを突きつけたが、その裏での…