保阪正康 日本史縦横無尽
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「蒋介石、軟禁さる」というニュースが世界を駆け巡った
西安事件は、近代中国にとって重要な事件であった。蒋介石の指揮下に入っていた張学良が、駐屯地の西安を訪れた蒋介石とその幕僚に「反乱」という形で抵抗したのである。もともと蒋介石は、この地での共産党勢力の…
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「滅共第一」「抗日第一」国民党と共産党は反目していた
日中戦争の始まる前、中国の情勢は確かに混乱していた。大状況で言うならば、中国国民党の指導者である蒋介石が北伐を行い、全国統一を進めていた。国民党軍は各地の地方軍閥や政治組織を抑える形で中国各地に相応…
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東條英機は溥儀に対して「あなたは我々の傀儡」と通告した
孫文の秘書であり、満鉄の社員でもあった山田純三郎の残した手記をもとに、辛亥革命の第2次、第3次の革命により、孫文の思想で固められた中国国民党が主導権を握り、表面上は国民政府で統一される様子を見てきた…
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多様な人材を…満鉄は近代日本のシンクタンクを目指した
辛亥革命は袁世凱政権を倒す第2革命、そして孫文の思想を現実にするための第3革命と続くわけだが、山田純三郎の手記は昭和14(1939)年の秋に書かれたもので、すでに満州事変、日中戦争が始まり、日中間は…
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三井の森恪は二千萬圓と武器で満州をよこせと要求した
山田純三郎の手記をもとに、孫文を中心に辛亥革命に協力した日本人を紹介しているのだが、森恪からの電報には次のようにあったというのである。 「時恰も三井の森恪から南京政府が日本に満州を提供するなら…
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第二革命の失敗で孫文は日本に亡命 頭山満の保護を受けた
辛亥革命に至るプロセス、そしてその後の第二革命、第三革命と続く渦中で、孫文の秘書役を務めた山田純三郎の書いた手記をもとに、さらに歴史の秘話を紹介していく。 1911年10月10日に武漢での決…
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黄興と孫文 革命の両雄に東京で握手させた犬養毅と頭山満
孫文は山田良政の死に衝撃を受ける一方で、その墓地が彼の故郷の弘前市や東京の菩提寺にできると、碑文を寄せている。表面上は辛亥革命がなった2年後の1913(民国2)年に日本に来たときに、同志・山田良政の…
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「辛亥革命」日本人志士最初の犠牲者・山田良政の銃殺刑
辛亥革命において、日本人志士で最初に犠牲になったのは山田良政であった。山田は日清戦争に従軍して、むしろ中国の歴史や中国人の考え方に興味を持つようになった。孫文と知り合うや、その思想に共鳴して革命に加…
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孫文は最後の会話で「革命いまだ成らず」と言って死んだ
1990年代の終わりの頃だ。辛亥革命に加わった日本人志士たちの子供、孫の幾人かが集まって祖父や父の思い出を語る会が開かれた。私の記憶では山田純三郎の息子の順造のほかに宮崎滔天の孫にあたる女性が3人、…
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「義」に生きる…辛亥革命を支えた500人の日本人たち
山田純三郎宅に、2人の中国人が訪ねて来て、陳其美に会いたい、自分たちは同志で資金面での協力ができると巧みに説いた。其美の側近が断ったにもかかわらず、彼らは部屋に入ってきて、其美を狙ってピストルを撃っ…
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袁世凱は孫文の腹心の部下である陳其美を狙った
溥儀は撫順の収容所を出たあとで周恩来の助力を受けながら、中国政治協商会議の満州族の代表という立場で漢民族と満州族の融和に努めた。溥儀は心理的な充足感を味わったであろう。というのは清朝帝政は、孫文らに…
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周恩来は溥儀に「人民に奉仕することこそ大切だ」と言った
溥儀は撫順の収容所では、極めて模範的な「囚人」だったという。日常は定められた通りのスケジュールをこなした。もともと知性派と言われる性質だったというのだが、溥儀自身は自らの運命をこの収容所で受け入れる…
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母親の浩と慧生は周恩来の計らいで北京で暮らすはずだった
昭和32(1957)年12月といえば、太平洋戦争が終わって12年が過ぎている。戦争の傷跡は少しずつ薄れていた。とはいえ満州国皇帝溥儀の姪である愛新覚羅慧生の同級生との心中事件は、世間を驚かせた。当時…
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溥傑の娘・慧生は天城山でピストル自殺を遂げた
溥儀は新中国でどのような扱いを受けたのか。最高指導者の毛沢東や周恩来の意向は、国を売る存在と見てはいたが、処刑という罰は考えていなかった。現に溥儀は撫順の戦犯収容所に収容されたが、そこで新生中国の一…
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顔に煤と泥を塗りたくり…皇帝・溥儀が取った奇妙な行動
溥儀の表情が沈んでいくのを、通訳のペリミヤコフは見ていたわけだが、慰めの言葉はかけようがなかった。ハバロフスクの収容所では、戦犯といえども、それほど酷い扱いを受けていたわけではない。いわば収容所内で…
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溥儀が性的不能者だった理由 それは女性に対するトラウマ
愛新覚羅溥儀は東京裁判で証人としての証言を終えると、再びソ連のハバロフスクの捕虜収容所に戻された。その立場は戦犯としての扱いであったが、かといっていわば日本の軍人のような過酷な扱いは受けていない。い…
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満州に建国神廟を建立した溥儀の言い訳「坤寧宮を拝む」
2回目の日本訪問のあと、溥儀は新京に戻ると皇居の中に神社(建国神廟)を建立した。祭神は天照大神であった。 「社殿は、銅板葺木造の権現造りであった。社殿の外には、溥儀が命じて建てた木造の大鳥居が…
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溥儀は「神社に不敬を行ったら懲役に処されるはずだった」と主張した
溥儀は日本の天皇制に対して、その歴史的伝統を満州国でも取り入れようとしていた節があった。第1回の日本訪問でも「天皇陛下と精神一体」との感想を満州国民に伝えている。一方で「皇紀2600年」である昭和1…
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東京駅まで直接出迎え…溥儀を身内のように迎えた天皇一族
愛新覚羅溥儀は、生命を長らえるのは自らの与えられた場でその役割をこなすことだと、割り切っていたといえるだろう。日本軍国主義の傀儡として振る舞うように要求されると、その役を忠実に務めた。大日本帝国崩壊…
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「溥儀は歴史に振り回されて生きてきた」と通訳は言った
ソ連のハバロフスク収容所に捕虜として収容された溥儀に、通訳のペリミヤコフ(ロシア人)はほとんど日常的に会っていたという。溥儀はソ連の共産党に入党したいというだけでなく、あれこれ嘆願書をソ連政府の要人…