テレサ・テン没後30年 極秘取材メモを解く
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(23)歌のうまい少女が大スターの道を歩み始めた
1970年になった。鄧麗君(テレサ・テン)は17歳。日本では大阪万博が開かれた。が、アジアに鄧麗君という歌手がいることはまだ知られていなかった。「世界最高の女性歌手」とのちに絶賛した音楽評論家の中村…
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(22)念願のレコードデビュー、ライブハウスでは妬まれるほどの人気
いまから58年前の1967年9月、麗筠(リーイユン。のちのテレサ・テン)は14歳になった。テレビへのレギュラー出演の影響もあって、歌丁(ライブハウス)での人気は高まっていた。宇宙レコードから「鳳陽花…
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(21)中学を退学し歌手に専念、道が開ける
テレサ・テンの母の証言を聞いて、歌手への道のりは順調だったようにも思った。 「13歳になったとき、台湾電視台(台湾テレビ局)の専属になり、週に1回放送されていた30分の歌番組『群星会』にときど…
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(20)小学生のころから軍の慰問へ、その後コンテストで優勝
前号からテレサの母親、趙素桂の証言によって、彼女の軌跡をたどっていくことにした。原稿を担当者に送ったところ、「生活ぶりは貧困だったのか、そうではなかったのか」と質問が寄せられた。テレサの「日本の父」…
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(19)母親が語った生い立ちとテレサの思い出
テレサ・テンの母親・趙素桂の肉声を紹介する前に、年表風に彼女の生い立ちをたどっておく。一族は中国の山東省東平県の出身だが、彼女は黒竜江省ハルビンで生まれた。民国15年、西暦でいえば1926年6月20…
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(18)テレサの母親に8時間を超えるインタビューで聞いたこと
テレサ・テン没後30年に当たってこの連載をしているのは、昨年末のマスコミ関係者の忘年会で「日刊ゲンダイ」の担当者とテレサの話をしたのがきっかけだった。私が13年間をかけて取材して書いた「私の家は山の…
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(17)破談したテレサの心情と残された幻の詩
テレサ・テンが「シャングリ・ラ・ホテル」の御曹司と婚約し、結婚披露宴の会場や日程(1982年)まで決まっていたのに破談したことは、29歳の心に深い傷を刻んだに違いない。しかも原因が「歌手をやめろ」と…
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(16)結婚にあたってテレサに突きつけられた3つの要求
テレサ・テンが婚約したことは、日本はもちろん、台湾、香港、まして中国大陸ではまったく知られていなかった。相手は「シャングリ・ラ・ホテル」などを経営する財閥の御曹司、ボー・クオックだ。パリでテレサが行…
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(15)うれしそうに友人に語った財閥の御曹司との婚約
私がテレサ・テンの親友だった女優の張玉玲に話を聞いたのは、1996年4月29日だった。本人がテレサと雰囲気が似ていたと語ったように、話しぶりも表情もとても穏やかだった。最後に出会ったときのこと、中国…
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(14)テレサが自作の詩に込めた「愛の苦海」という心情
テレサ・テンは中国の漢詩を学び、自分でも書きたいと詩を習作してきた。没後に公開された作品の冒頭と最終節を日本語訳で紹介する。前号で紹介したパリのアパルトマンに残されていた「冬夜裡吹來一陣春風」(冬の…
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(13)行きつけの中華料理店で聞いた謎の人物
テレサ・テンが住んでいた香港とパリの住居に入り、日常生活の雰囲気に触れることができた。長い時間、その空間で暮らしてきたパリのアパルトマンの机上には、多くの郵便物といっしょに彼女の直筆の詩が置いてあっ…
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(12)テレサの部屋は何から何までピンクで埋め尽くされていた
テレサが「北京青年報」の関鍵記者に語ったことは、プライベートな自宅にあった日用品や書籍からも、事実だったことがよくわかる。歌手としての内面が見て取れたからだ。彼女の住まいはタイのチェンマイで亡くなっ…
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(11)テレサの暮らしぶりがそのまま残っていた自宅に入った
1995年5月8日に42歳のテレサがタイのチェンマイで亡くなった。そのあと、私は彼女が長年暮らしていた香港の住宅と最後の住まいとなったパリのマンションを訪れた。テレサ・テンの全生涯をたどるには、どう…
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(10)テレサの周辺の人々はみんないなくなった
テレサ・テンの取材をはじめてからというもの、私のナビゲーターになってくれたのは、彼女をスカウトした日本ポリドールの制作部長だった舟木稔さん(のちにトーラスレコード社長)だ。多くの人を紹介してもらった…
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(9)テレサがのめり込んだ中国の古典詩の世界
1985年1月30日深夜、「北京青年報」の関鍵記者がシンガポールのテレサ・テンにいきなり電話をした。翌日の紙面に掲載されたインタビュー記事を読んで、彼女が正直に語っていることがわかった。テレサは日常…
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(8)祖国の将来に大きな期待を抱いていた
1985年1月30日午前0時12分。シンガポールにいたテレサ・テンへの北京からの電話は、中国についての話に進んでいった。関鍵記者がテレサの曲は大陸の若い世代に好まれていると言うと、少し考えているよう…
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(7)「精神汚染」といわれたテレサのインタビュー記事にデスクの戸惑い
テレサ・テンの歌声は、1979年に大陸に入っていくと、瞬く間に全国へ広がった。中国が鄧小平指導のもとで1978年から「改革・開放」路線をとり、経済改革とともに対外開放方針を進めたからだ。毛沢東路線か…
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(6)逡巡した末にかけた電話。53分間のインタビューが始まった
1985年1月30日深夜0時12分。シンガポールの自宅にいたテレサは、前日、32歳になった誕生日をひとりで過ごし、そろそろ眠ろうとしていた。そのとき部屋の電話がいきなり鳴った。相手は「北京青年報」の…
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(5)荻窪の薄汚れたアパートにスクープ記者が住んでいた
東京・中央線の荻窪駅の北口を出て青梅街道を渡ってすぐ左側に「教会通り」がある。その先には「セブンスデー・アドベンチスト天沼教会」がある。井伏鱒二の「荻窪風土記」にも出てくる教会で、通りの由来になった…
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(4)日本、台湾、中国で異なるテレサ・テンの評価
日本人にテレサ・テンという歌手の人物像はどう映っているのだろうか。それは中国、台湾をはじめ世界に広がっている華人社会での評価(評判)とも重なり、また、すれ違っている部分もある。 中国・上海の…