テレサ・テン没後30年 極秘取材メモを解く
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(48)戒厳令下の台湾からはテレサを強制送還せよ、との圧力が
テレサ・テンが入った東京入国管理局の女子収容所は、畳部屋で20人ほどがいっしょに暮らしていた。中国人が多かったので話し相手はいた。そのため気落ちすることは少なかった。テレサの取り調べは入国警備課と審…
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(47)台湾での入国拒否を横で見ていたのは中国時報の記者だった
テレサ・テンがインドネシアのパスポートを使用していたことはなぜ発覚したのか。1979年2月13日、香港から台湾に到着したとき、入管ではビザがないからと入国を拒否された。そのトラブルを目撃している人物…
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(46)インドネシアのパスポートで入国、入管に連行
1979年2月14日水曜日。香港から台湾に戻ったテレサ・テンは、入管で止められて入国できなかった。バッグから出したパスポートがインドネシア政府発行のもので、ビザがなかったからだ。慌てたテレサは台湾か…
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(45)突然、ホテルから入管に連行された衝撃
1979年2月17日。土曜日なので自宅にいた日本ポリドールの編成部長、舟木稔の電話が鳴ったのは午後8時ごろだった。相手はテレサ・テンの母親の通訳をしている佐井芳男。いつもは明るく穏やかな佐井の声が切…
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(44)月25万円のギャラは瞬く間に10倍に
デビュー曲「今夜かしら明日かしら」がヒットしなかった落胆。2曲目の「空港」が売れてレコード大賞新人賞を獲得した喜び。それでもテレサ・テンの胸中では複雑な思いが渦巻いていた。日本の芸能界で慣例になって…
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(43)没後30年、テレビ朝日のテレサ番組に抱いた違和感
1974年に日本でデビューしたテレサ・テン。「今夜かしら明日かしら」は売れなかったが、2曲目の「空港」がヒットして、歌謡界で大きな地歩を築きはじめた。しかし日本の芸能界の慣習に強い違和感を覚えていた…
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(42)ビキニの水着を渡されて「嫌です」と突き返す
テレサ・テンのデビュー曲「今夜かしら明日かしら」は売れなかった。せっかく香港からスカウトし、期待していただけに、ポリドールも、渡辺プロも納得できないどころか、焦りを覚えていた。誰よりもテレサ本人がそ…
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(41)1曲目が売れず2曲目は「演歌」と「ポップス」の融合に
日本で仕事をはじめたテレサは、香港の歌庁(ライブハウス)で彼女を見いだしたポリドールの佐々木幸男たちに誘われ、有楽町のガード下など安い飲食店に連れて行かれた。ある焼き肉屋で豚足を食べたときは「おいし…
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(40)なぜ、テレサの日本デビュー曲は売れなかったのか
1974年に21歳で日本デビューしたテレサ・テンだが、落ち込んでいた。最初の作品「今夜かしら明日かしら」がヒットしなかったからだ。台湾や香港での活躍を否定されたかのように感じていた。 当時の…
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(39)台湾出身なのに「香港の赤いバラ」で売り出す
私が通う酒場にこの連載を愛読してくれる常連が何人かいる。あるときこんな感想を聞いた。 「日本でデビューしてからのことを書いてよ。懐かしい曲ばっかりなんだからさー。歌がうまかったよね」 …
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(38)木村佳乃さんが本物のテレサに見えた
1989年5月27日、香港のハッピーバレー競馬場で行われた中国の民主化支援の集会に参加したことでテレサ・テンの人生は大きく変わっていく。 テレサ36歳。天安門事件まで、あと8日だ。集会で初め…
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(37)泣きながら逡巡、テレビで大観衆を見て決意
1989年5月27日。香港は平均気温が23.9度。湿度90%。蒸し暑い一日となった。ハッピーバレー競馬場では中国の民主化支援コンサートが朝10時からはじまった。2階のベッドで目覚めたテレサ・テンはダ…
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(36)カナダにいたピアニストが語った5月27日の全貌
中国の民主化支援を行ったテレサ・テンの姿を見て、その心情を知りたいと思った。 彼女が人生ではじめて歌った「我的家在山的那一邊」。なぜ、この曲を選んだのか。1992年に取材したとき、彼女は「自…
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(35)テレサはなぜ、コンサートで「私の家は山の向こう」を選んだのか
1989年5月27日、香港のハッピーバレー競馬場で行われた中国の民主化運動を支援する100人以上の歌手たちによるチャリティーコンサート。ここに突然現れ、歌ったテレサ・テンの姿は、没後30年が過ぎたい…
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(34)歴史の瞬間に選んだ「私の家は山の向こう」
中国民衆の民主化運動に自分は励まされてきた。だから、そうした活動は心から支援したい。テレサはそう思っていた。中国は父母が生まれ育った大陸だ。いつか北京や上海で無料のコンサートを開くのが夢だった。世間…
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(33)30万人の大観衆が静まり返り、テレサの話に耳を傾けた
1989年5月27日、午後3時すぎ。香港のハッピーバレー競馬場で行われた中国の民主化支援の集会に参加したテレサ・テンは、マイクを手にして語りだした。 突然、登場したときに起きた約30万人の大…
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(32)イメージを一変させたチャリティーコンサートでのワンショット
テレサは日本、アジアだけでなく、世界の華僑圏でも歌手として認知されるようになっていく。台湾でデビューした14歳の1967年、香港に進出した18歳の1971年、日本で活動をはじめた20歳の1973年以…
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(31)激動の時代を経てテレサが語った中国への思い
1989年は世界史のなかでも特記に値する激動の一年だった。「戦争と革命の世紀」のエポックでもあった。冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊し、東欧の社会主義国家がドミノ倒しのように崩壊していった。アジア…
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(30)中国の戦車が来るかもしれないと怯えていた
鄧麗君(テレサ・テン)が日本でデビューして亡くなるまでの期間は21年だ。決して短い時間ではない。1995年に42歳で亡くなった彼女は存命なら今72歳になる。おそらく歌うこともなくフランスあたりで暮ら…
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(29)本の脱稿後に中国共産党の機密文書を入手
テレサ・テンがタイのチェンマイのホテルで呼吸困難に陥り、搬送された病院で42歳の若さで亡くなってから30年がたつ。没後30年の節目に彼女の人生を再検証できないか。日刊ゲンダイの担当者の依頼を喜んで引…
