江戸おんな職人余録 第四弾 漆の一滴
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(20)漆の一滴を守りたいのです
「藩の財である漆を、そなたは守ったのだ。その功を評さねばなるまい。望むままに御役を与えるもよし、家禄を加増するもよし」 「望むままに、でございますか」 「御小姓組の頭になりたいか、それとも…
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(19)形見の鉋を握りしめたまま叫ぶ
一弥は、刀を構えたまま間合いをとった。柄を持つ手が震えそうになる。殿様の身辺を守る御小姓役として、日々、剣術の鍛錬は積んでいる。だが、真剣で戦ったことなど一度もない。斬り合いを避けたい思いで、一弥は…
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(18)漆の木の根本にサキのタカッポが
「待て、おい! ロン!」 一弥は黒犬の背を、必死で追いかけた。背丈を超すほどの笹藪に飛び込み、枝葉に頬を掻き切られ、四つ足のロンが跳ねて登っていく岩場に、しがみつく。 「くそ、こっちは足…
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(17)ロン、なじょしたんだべ
「啓吾殿の兄ということは、漆掻き職人たちの頭は、もとはサキの父親だったと?」 「はい。兄が亡ぐなった後、私が継ぎました。いずれ、長男の弘吉とサキが夫婦になってもらえだら、死んだ兄も安心するかと」…
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(16)殺した男は捕まっていないと
「サキという名の、漆掻き職人の娘のことです」 「あの娘が、何か」 一弥は、ちらと囲炉裏端で火の番をする老婆を見やる。老婆は耳が遠いのか、こちらの会話に興味を示す様子がない。腰を痛めている…
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(15)頬に手を伸ばし、そっと涙を拭う
「殺されたんだ。十年前、あの漆林で……」 そう言った途端、漆黒の瞳がみるみる潤んで、その頬に涙が零れ落ちた。 夕風が吹き、梢が揺れて、漆の甘い匂いがした。目の前のサキの頬がとめどもなく…
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(14)一弥を見つめる瞳は漆黒
サキは一弥の背丈に合わせて背伸びをしている。その黒々とした目と目が合う。 一弥を見つめる瞳は、漆黒だった。 咄嗟に、体を離した。顔が真っ赤になっているのが自分でもわかるほど頬が熱かっ…
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(13)んだば、舐めてみるか
一弥は、滴る雫に手を伸ばしかけた。それをサキは制した。 「触れない方がいい。かぶれる」 「ああ、そうであった」 「滲んですぐは白いんだ。だども、だんだん黒ぐなる。傷つけられた痕を治…
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(12)漆の木の幹に鉋で削った傷跡
各々が持ち場に向かって、一人また一人と山道を分かれていき、今は、サキとロンと一弥だけになっていた。 朝露が光る草を踏み分けて、坂を登り、森を抜けると、サキが笑顔で振り返った。 「こごが…
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(11)サキとロンの後を黙々と追いかける
米の不作に悩まされ、時に大飢饉に陥るこの藩において、白米はこの上ない馳走なのだ。だが、城下で暮らす武家の自分は、当たり前のごとく食していた。そのことに改めて気づかされ、箸を持つ手が止まる。 …
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(10)ひっつみ、作ってお待ぢしておりました
「サキの話から、啓吾殿はすでに漆掻きからは退いたものだと思っていたが」 「いえいえ、毎年、集落の職人だちとともに、山さ入っています。んだども、この腰では、今年は難しいでしょうな。山歩ぎをするのは…
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(9)初めて見るサキの笑顔に胸が鳴る
一弥は「もう少し休みたいのだが」と言ってしまう。サキは口を尖らせた。 「こんなところで、いづまでも休んでいだら、ほんとに日が暮れるべ。山で野宿するつもりなら、それでもいいども」 「そ、そ…
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(8)正直、犬はあまり好きではない
「お父……そなたのお父上の啓吾殿がいた頃は、ということか? それはつまり、啓吾殿は、今はもう、漆掻きをしていないということか?」 サキは立ち止まると、ぽつりと言った。 「サキ、でいい」 …
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(7)そなた、いったい何者なのだ
一弥は、厳しい口調で言った。 「殿様からは、漆の取れ高が減っている理由を調べるべく、殿様の御耳となり漆掻き職人の声を聞くようにと仰せつかっております」 すると、白石は目を丸くして言う。…
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(6)小柄な体格は俊敏な小鹿を思わせる
白石は、全く悪びれた様子もなく、番小屋の縁側に座して汗を拭って言う。 「小繋まで来ましたからには、浄法寺もあと少しにございますぞ」 一弥は「さようですか」と答えながら、白石の隣に腰掛け…
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(5)のんびり湯治などできようものか
一弥は微笑して返事を濁す。殿様の直命で漆の取れ高が減っている理由を探りにいくというのに、のんびり湯治などできようものか。というか、この謙ってばかりの上役と二人きりで温泉に浸かったところで、心身が癒さ…
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(4)奥羽の山々も初夏の色
多佳も悠も「おっしゃる通りにございます」と、聞き入っている。 「殿様は、ここ十年、浄法寺の漆の取れ高が減っていることにお気づきになられたのだ。その理由を知るべく、漆を採取する漆掻き職人たちの声…
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(3)漆奉行の配下として浄法寺に
「今日、登城した折に、殿様より御役替えを命ぜられた」 憮然と言った一弥に、多佳と悠が驚いた。 「殿様の御小姓役ではなくなるのですか」 「一時ではあるが、まあ、そういうことだ。浄法寺…
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(2)兄上は江戸に行きたかったのでしょう
一弥は「そうでしょうな」と曖昧に返す。江戸参勤に同行せず盛岡に残っていた一弥に、殿様の江戸でのご苦労などわかるはずもない。 本来、大名家の嫡子は徳川幕府の人質の意味もあって江戸藩邸で生まれ育…
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(1)この私が、なぜ、かような御役を…
〈一〉 一弥は、中津川のほとりを、とぼとぼ、歩いていた。 春霞の空には、残雪をいただく岩手山が聳えている。だが今の一弥は、盛岡城下に春の訪れを告げる景色を楽しむ気持ちにはなれない。 …
