語り部の経営者たち
-

ポッカサッポロ國廣喜和武社長<5>初の支店長で試練に直面
決して酒に強いわけではないのに、サッポロ社内でトップセールスマンに上った國廣喜和武。嘔吐を重ねながらも、深夜まで営業先で酒を飲む。天真爛漫な性格と持ち前のバイタリティーとで、相手の懐に飛び込んでいく…
-

ポッカサッポロ國廣喜和武社長<4> デキる営業マンの証し
1979年、サッポロビールに入社した國廣喜和武。最初の赴任地、名古屋から、東京の営業部に異動したのは1985年。2年間、大田区を担当した後、87年から渋谷区の家庭用と業務用の営業となる。 8…
-

ポッカサッポロ國廣喜和武社長<3> 新人時代の企画が成功
1979年、横浜国大を卒業してサッポロビールに入社した國廣喜和武は、名古屋で営業に従事する。 当時、サッポロは千種区に工場を持っていたため、名古屋のシェアは3割にも達していた。問題は、清涼飲…
-

ポッカサッポロ國廣喜和武社長<2>卒業前に担当教授が一言
横浜国大の4年生の時、國廣喜和武は就職先として総合商社を希望し、数社訪問していた。当時、横国大から総合商社に入る学生は多かった。 ところが「入社できるのは2浪まで。3浪はダメ」。どうやら総合…
-

ポッカサッポロ國廣喜和武社長<1> 横国大「3浪しました」
「神奈川県立希望ケ丘高校に入学したころ、東大紛争があり東大の入試が中止されました。大学紛争は高校にも飛び火し、高校紛争も始まりました。自分たちも、通信簿をなくし、制服をなくしました。高校のすべての自治…
-

ROBOT加太孝明社長<4> CMも映画も同じフィルムという発想
加太社長にとって、一番思い出深いのは、映画「Love Letter」(1995年公開)だという。ROBOTが初めて挑戦した長編映画で、加太社長は、この作品の包括的なプロデュースやマネジメントを担当し…
-

ROBOT加太孝明社長<3> 大変なときこそ一番楽しいときだ
1989年、ROBOTに入社。当時はまだ社員15人程度の小さな会社で、第一企画とは規模が違い過ぎた。代理店から制作プロダクションに移るケースは珍しく、周囲の人たちにはかなり不思議がられたという。 …
-

ROBOT加太孝明社長<2> 広告代理店でJTの「CABIN」を担当
加太社長が大学を卒業した1979年当時は、テレビメディアが隆盛を極めていた。テレビCMは単なる商品宣伝だけではなく、社会的に大きなメッセージ力を持つまでになっていた。 広告代理店の第一企画(…
-

ROBOT加太孝明社長<1> 「つみきのいえ」がアカデミー賞に
ROBOTは、テレビCM、映画、アニメ、WEB、グラフィック、ゲーム、キャラクター開発など多彩なエンターテインメント事業を手がける制作プロダクションだ。 オモチャ箱をひっくり返したような楽し…
-

玉寿司 中野里陽平社長<6> いい会社は社員が主体的に解決
15年前に倒産の危機に瀕した玉寿司だが、努力が実って2015年には全店が黒字化。2%台だった経常利益率も飲食業界では優良会社といえる7%台に乗せて、見事に息を吹き返した。 「仕入れ改革も重要で…
-

玉寿司 中野里陽平社長<5> なれ合いを断ち意識改革を断行
ある日、中野里氏の元にJR系商業施設の担当者が訪れた。新宿にある商業施設のレストランフロアをリニューアルするにあたり撤退を求めてきたのだった。 「当時、その商業施設は若い女性をメーンターゲット…
-

玉寿司 中野里陽平社長<4> 要石ひとつで局面が大きく変わる
中野里氏が初めて手掛けた「寿司ダイニング 太老樹」は、月を追うごとにどんどん売り上げが落ち、赤字が続いた。 「絶対に行列ができると思っていたのでショックでした」と中野里氏。原因を探るために給仕…
-

玉寿司 中野里陽平社長<3> 「五感を満たす大切さ」を知る
中野里氏がアメリカ留学を決めたのも先人の言葉がきっかけだった。 「他の寿司屋に修業に行くべきかと旭鮨総本店の3代目・高野健明さんに相談すると、高野さんから『君が目指すのは本物の経営者か、本物の…
-

玉寿司 中野里陽平社長<2> バイト先で味わった“絶望”
大学生になった中野里氏が入った少林寺拳法部は体育会の部活。 「練習が厳しい体育会なら心身が鍛えられるだろうと考えました。聞けば、少林寺拳法部はかなりハードだという。中学から続けていて黒帯だった…
-

玉寿司 中野里陽平社長<1> 理念は「4つのことを大切に」
木を基調とした心地よい店内にリーズナブルな価格。大正13(1924)年に創業した「築地玉寿司」は、親しみやすさで人気を博す江戸前寿司の老舗だ。現在、東京を中心に全国29店舗を展開する玉寿司を率いるの…
-

アサヒビール平野伸一社長<8> 困難を“ラッキーだ”と歓迎
サラリーマン人生の後半、社長に就くまで、平野伸一の肩書と仕事はめまぐるしく変わっていった。 九州地区本部広域営業担当副本部長という、やたら長い肩書をもったのは2003年9月。九州で大手のスー…
-

アサヒビール 平野伸一社長<7> あの光景は忘れられません
「もう、俺を泣かすなよ……」 会長の瀬戸雄三は、女子社員たちに向かいおどけるように言いながら、会場の社員食堂に入っていった。 2001年のビール商戦の結果が明らかになったのは02年1月…
-

アサヒビール平野伸一社長<6> 批判のストレスで体に異変
1989年、マーケ部から東京支社南支店に異動し、課長補佐となる。3年ぶりに営業現場に戻り、91年9月には課長に昇進した。93年秋には社内選抜で合格し、早稲田大学ビジネススクールに国内留学する。修了し…
-

アサヒビール平野伸一社長<5> 国民的ヒット商品たるゆえん
1987年、5期先輩で“伝説の営業マン”と呼ばれ、後にアサヒ飲料の社長となる菊地史朗と一緒に大ヒット商品「スーパードライ」の発売を手がけた平野伸一。 「酒販店への商品見本の送付に宅急便を使いま…
-

アサヒビール平野伸一社長<4> スーパードライ発売前夜
東京支店営業推進課を経て、平野伸一がマーケティング部に異動したのは1986年8月だった。同時期に、群馬支店からマーケ部にやってきたのが菊地史朗。平野よりも5期上の74年入社の菊地は“伝説の営業マン”…
