保阪正康 日本史縦横無尽
-
天皇は「なぜ事件を事前に予測できなかったか」と詰問した
昭和11年2月29日、事件が起きてから4日目である。この日の朝から、反乱軍の下士官と兵士たちに向けてビラが撒かれた。「兵に告ぐ」のビラである。戒厳司令部も午前9時に発表を行い、永田町付近を占拠する一…
-
青年将校の自決に天皇は「自殺するなら勝手に為すべし」
昭和天皇が激怒した理由を考えるとき、同時代の枠組みだけではわからないことがある。いくつかの理由を紹介してきたが、改めて想定できる理由を考えてみたい。 2・26事件の4年前の5・15事件のとき…
-
「真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり」と天皇は怒り
昭和天皇は、このクーデター計画が実行された時から一貫して、怒りの表情を見せていた。天皇以外は一兵たりとも動かすことはできない。にもかかわらず青年将校たちは、勝手に兵を動かしている。加えて彼らは、天皇…
-
東條英機、梅津美治郎は「断固討伐せよ」と電報を打った
青年将校の指揮のもと、1500人の決起部隊は東京・永田町一帯を占拠したが、特に陸軍大臣官邸を中心にして青年将校の指導部は、昭和維新を成し遂げ、維新政府を樹立するのを目的にしていた。この指導部は磯部浅…
-
天皇の周辺にいる「君側の奸」を排除するのが我らの使命
2.26事件は昭和11年2月26日に起こった。20人を超す青年将校に指揮された1500人ほどの下士官、兵士が首相官邸、斎藤実内大臣私邸、渡辺錠太郎教育総監私邸、鈴木貫太郎侍従長公邸など7カ所を襲って…
-
皇道派青年将校による永田鉄山軍務局長惨殺事件の真相
5.15事件から2.26事件までの4年近くの間に、テロやクーデターに類する動きはいくつかあった。右翼陣営のみならず、左翼陣営にも資金獲得のために銀行を襲撃する動きがあった。この4年間は、いわば次の時…
-
親軍派は軍事ファッショに反対の政治家を追い落とす行動に
日本社会の基軸は5.15事件以後、大きく変わった。軍に逆らうことができなくなったのである。世の中を変えてくれるのは軍だと考える庶民が増えた。軍人たちは直接行動で犯罪を行ったにもかかわらず、その刑が民…
-
5.15事件の法廷模様 陸海軍には甘く民間人に厳しい判決が
5・15事件は陸軍側の士官候補生、海軍側の青年士官らの異様に感情的な法廷模様と違って、民間側の参加者には冷酷そのものだった。軍人側は言いたいことを存分に述べる機会が与えられた。決行者たちは自分の命は…
-
暗殺された犬養首相の家族が罵倒される世の中になった
昭和6年から11年までのわずか6年の間にテロとクーデターが猛威を振るい、暴力が前面に出てきたことにはいくつかの理由がある。もっとも大きな因は大衆がこの暴力を支持したことである。そうでなければテロやク…
-
2.26事件からわずか6年でテロやクーデターが主役となった
2・26事件以前にもいくつかのテロやクーデター(未遂)があり、その過激な政治行動は次第にエスカレートしていった。こうした暴力行為は初めは恐る恐る起こり、やがて大胆になっていくのが常で、昭和初期もまた…
-
テロ時代の幕開け「郷詩会」の国家改造が招いた血盟団事件
昭和6年8月26日、東京・青山にある日本青年館で「郷詩会」なる会合が開かれた。文学青年風の集まりに思えるが、その実態は違った。陸軍の青年将校、海軍の革新派士官、それに民間側から北一輝系、井上日召系、…
-
警視庁の監視を受けて「戦って、死ぬ」という檄文を撒いた
死のう団事件のケースは昭和初年代の特高警察の暴虐の姿でもあった。カナトクの警察部長は本省に栄転し、特高課長は自殺している。拷問した刑事たちは詫びたとはいえ、転出、あるいは配置換えになり、死のう団本部…
-
2.26事件の青年将校は密かに死のう団に協力を求めた
特高課長の池田は遺書を残した。退職金は自分の家族と拷問を受けた死のう団の女子医専の学生に送るように書かれていた。その後、示談交渉は全て止まった。本部に残ったのは14、15人の団員となったが、彼らは血…
-
団員たちに泣いて謝罪したあと山中で自殺した特高課長
神奈川県警察部と死のう団の間では、7カ月近くにわたって示談交渉が続いた。警察部長の相川勝六ら幹部は「部下の失敗」と逃げたが、江川桜堂と死のう団は「いや、そうではない。幹部たちの責任を巧みに逃げている…
-
神奈川県警は「死のう団」に譲歩しつつ嫌がらせを続けた
昭和8年10月16日、死のう団の盟主である江川桜堂は団員の母親などと共に、横浜検事局に特高課長や特高課員など10余人を不法監禁、人権蹂躙、傷害で訴えた。この告発状は新聞にも詳しく報じられた。例えば当…
-
「カナトク」は女性団員を裸にして性的な拷問を行った
彼らは異様な風体で「死のう、死のう」と叫びながら、30人ほどで行進を始めた。死のうの意味は、日蓮の唱える「不自惜身命」を現代風に表した語だというのであった。彼らは鎌倉の鶴岡八幡宮を出発してまもなく警…
-
5カ所で5人が割腹自殺を試みた「死のう団」事件の背景とは
昭和という時代にはさまざまな事件が起こった。その中には時代を反映した犯罪も少なくない。貧しさゆえの犯罪、政治的思惑が絡んだ犯罪、あるいは男女関係のもつれなど、この時代の特徴が浮かんでくる。今回からは…
-
特攻隊員に「爆弾を投下したら逃げろ」と囁く下士官もいた
太平洋戦争下で特攻死した搭乗員たちはどれほどいたのだろうか。実はその詳細はわかっていない。特攻隊でなくても、そのような死を受け入れた搭乗員もいたであろうし、逆に特攻隊員であっても死を受け入れなかった…
-
講和のため日本人1400万人を特攻で死なせると大西は言った
先に述べたように、2大汚点のひとつである「特攻は全員が志願した」との言い方は、特攻を生み出した責任が隊員個人に転嫁されることを意味する。同時に隊員は「救国の英雄」呼ばわりされていく。国を挙げてのこの…
-
特攻作戦への歴史的な批判を恐れた「軍事指導者」たち
特攻作戦には2つの誤伝がある。ひとつは海軍の場合、第1航空艦隊司令長官の大西瀧治郎の発案によるとの説、もうひとつは全員が自ら特攻を志願したという説。なぜこの説が流布してきたかといえば、特攻作戦が20…