保阪正康 日本史縦横無尽
-

昭和16年6月22日、ドイツのソ連侵攻は衝撃的だった
昭和16(1941)年12月8日は日本海軍が真珠湾攻撃に踏み切った日である。この日はさまざまな表現で語られる。日本の存亡の始まりの日とも言えるし、危機突破を試みた初めての挑戦の日という言い方もできる…
-

吉田も岸も…安保条約と日満議定書の皮肉な共通点
あの60年安保闘争とは一体何だったのだろうか。今なお見落とされている視点を私なりに整理しておきたい。 吉田茂首相はなぜ昭和26年9月7日の夕方にサンフランシスコの第8軍司令部で日米安保条約に…
-

集会のさなかに河上社会党前委員長が右翼青年に刺された
「昭和35年6月19日午前零時」は60年安保の抗議デモが敗北という形で決着がついた日であった。国会を数百万の人々が取り囲もうが、全国いたるところで抗議デモが起ころうが、それは新安保条約の自然承認の前の…
-

狂暴化した警官隊は暴力団と共謀して女子学生を撲殺した
6月16日から17日にかけて、日本社会には声明が氾濫した。政府、各政党、財界、労働組合、文化団体、大学、そして新聞社までもが声明を出した。樺美智子さんの死はそれほど大きな衝撃を与えたのである。 …
-

東大女子学生の樺美智子の死に学生たちは涙の黙祷を捧げた
1回目の衝突で学生たちは国会の外に押し出され、負傷した学生は病院に運ばれた。だが国会の構外にはまだ学生たちが待機していた。彼らから女子学生の死を知らされた全学連の宣伝カーが国会構内に入り、東大女子学…
-

「女子学生が死んだ」という噂がデモ隊の中に広まった
今年は昭和35(1960)年6月15日から60年にあたる。あの時代を肌で知る者は、今も6月15日のことを鮮明に記憶しているだろう。思い出としてはそれほど強烈である。 この日、京都の円山公園で…
-

ハガチー秘書への暴挙が抗議デモを萎縮させたという皮肉
ハガチー秘書の自動車を包囲しての暴挙は、国の内外に反響を呼んだ。「暴挙は国際的な常識に欠ける」というのは否めない事実であった。ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストは、日本の民主主義がまだまだ未…
-

ハガチーはデモ隊に取り囲まれキャデラックの屋根が歪んだ
6月4日以後もデモは続き、6月8日に大きなデモが予想された。というのは岸がアメリカのアイゼンハワー大統領を日本に招いて調印式を行おうとしていたからだ。その日は6月19日と想定されていた。大統領秘書の…
-

「俺たちは賃金をかけてやってるんだ」と袋叩きにあった
安保改定阻止国民会議は昭和34(1959)年3月28日に結成された。総評などの呼びかけで社会党、共産党などを含め134団体を代表する800人ほどによって動きが始まった。1年後の昭和35年3月には16…
-

デモのエネルギーで経済大国になれると読んだ首相秘書
新安保反対というより、反岸首相といった流れのデモ隊が国会を幾重にも囲む状況を、いわゆる体制派の人たちはどう見ていただろうか。自民党の有力者で、岸首相の辞任後に首相の座に就いた池田勇人の秘書だった伊藤…
-

日本が戦争の時代と決別するための実験だった安保反対デモ
新安保条約への抗議デモの本質は岸首相の体質への不満といってよかった。彼の言動は大衆の怒りの火に油を注いだ。デモの人たちの「声ある声」は少数で、多数の国民は政府に賛成している、私はそういう声を信頼する…
-

中高生や商店街など社会全体に怒りのエネルギーが広がった
この日(昭和35年5月19日)の夜から20日の朝にかけては雨が降っていた。その中を労働組合員や全学連の学生たちが国会の周辺でデモを続けていた。その数は3000人ほどだったという。雨の中を国会に突入し…
-

新安保の強行採決 国会では議員紹介の暴力団が野党を威嚇
自民党の暴力的な強行採決は、新安保条約の改定をめぐる対立を一気に「議会政治を守るのか否か」に変えていった。ありていに言えば新安保条約は確かに日本が属国状態から一歩抜け出す面をもっていた。駐留アメリカ…
-

警官隊を導入した岸内閣 国民は軍事主導体制思い浮かべた
このシリーズでも触れてきたが、サンフランシスコ講和条約に調印して日本は国際社会に復帰した。その折に吉田茂首相は日米安保条約にも単独で調印している。のちに問題になるからとの言を残してである。それからほ…
-

60年安保反対デモは日本人が戦争と縁切りする儀式だった
1960(昭和35)年のいわゆる「60年安保闘争」から60年である。60年安保は近現代史上で初めての国民的規模の反政府闘争であった。労働者、学生、市民、主婦、未組織の労働者、それに老人、高校生まで実…
-

50人以上の日本人が利用された「ソ連大使館スパイ事件」
日本が占領を受けていた期間(昭和20年8月から27年4月まで)は、東西冷戦が次第に激しくなった時でもあった。東西冷戦は軍事が前面に出てきたわけではないが、「戦争」の一形態であるとの見方がされることも…
-

日本人の特徴は“胴長短足” 8頭身で世界を驚かせた伊東絹子
日本人は胴長短足が特徴であった。日清戦争の時に欧米の通信社は朝鮮に上陸して清国との戦いに行軍している日本兵の姿を猿にたとえ、猿の一団が朝鮮に攻め入ったという表現で報じている。そういう侮蔑の心理が欧米…
-

米軍の試射場建設ごり押しで発生した石川県の「内灘戦争」
講和条約の発効から5カ月後、アメリカ軍は石川県の内灘村に日本製砲弾の試射場を造りたいと申し出た。政府はそれを受けて石川県に伝えている。アメリカ軍はこの基地を無期限に使用したいとの意向を明らかにした。…
-

全共闘運動が学生の怒りから始まったのは当然の現象だった
ベビーブーム世代が青年期、壮年期、そして高齢期を迎えて行く時、彼らの世代体験は常に有史以来の初体験という言葉で語られた。それまで1年に200万人余の同年代が存在することはあり得なかったからだ。もっと…
-

3年間で810万人に達した新生児が「第2の開国」を代表した
年が明けて令和2年となった。どのような年になるのだろうか。ちなみに明治で数えると153年、大正109年、昭和なら95年、そして平成32年になる。近現代史はやっと150年を超えたということになろうか。…
