沢野ひとし「ラ・ラ・ラプソディー in 昭和」
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山口百恵は、大人でも子どもでもない妖しい魅力に包まれていた
1978(昭和53)年、山口百恵の「いい日旅立ち」(作詞・作曲 谷村新司)が国鉄(現JR)のキャンペーンソングとして繰り返しテレビから流れてきた。 瀬戸内海の近くを列車が走り、叙情的な風景が…
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内田裕也は皆んな避けて通りたかったのに、昭和の偉大なるエンターテイターだった
内田裕也とザ・フラワーズを初めて見たのは1969(昭和44)年前後であった。当時はジャズ喫茶と呼ばれていた、新宿のACBと池袋のドラムのステージで忽然と立っていた。 内田裕也はマイクにピッタ…
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今でも暗譜している「みかんの花咲く丘」は、消えたアメリカ人の居場所を教えてくれた
童謡「みかんの花咲く丘」は1946(昭和21)年にNHKラジオ「空の劇場」で歌われた。終戦直後の日本は「国破れて山河あり」の状態であった。東海道線の丘の上には、夏はみかんの白い花が咲き乱れていた。 …
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赤岳に向いながら男4人で、水戸黄門「ああ人生に涙あり」を歌った
10代の終わりから山登りが趣味であった。 歩いていると都会での悩みがやがて消えていく。深い森やどこまでも続く峰々、満天の星を見つめると、自然界のエネルギーを体ではっきり感じる。 長い…
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「別れの磯千鳥」は高校時代に千葉の海岸で飽きるほど歌った
井上ひろしの「雨に咲く花」は1960(昭和35)年に約100万枚の大ヒットをした。このヒットによりリバイバルブームが巷にあふれ出した。 B面に「別れの磯千鳥」があり、この曲はちょうど高校に入…
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遠距離恋愛を対話形式で歌った「木綿のハンカチーフ」
1970年代の最大のヒット曲といえば太田裕美の「木綿のハンカチーフ」に尽きる。作詞は松本隆、作曲は筒美京平との新たなコンビの幕開きであった。歌謡曲にポップス調の新鮮な風を吹きこんだ。 197…
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夫婦デュオ「紙ふうせん」の二重唱にツーと涙が流れた
秋が終わり何の前ぶれもなく、木枯らしが吹き荒れる頃に、不意に紙ふうせんの「冬が来る前に」の曲が心の中に流れてくることがある。 1977(昭和52)年に大ヒットした曲である。すでに自分の青春時…
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あずさ号を見るたびに、自分の青春は終わったと実感
昭和の時代まで旅というと鉄道であった。多くの歌謡曲に汽車や列車が主役のように登場してきた。そんな曲の中で、具体的な時刻や列車名まで歌った曲は皆無であった。 1977(昭和52)年、狩人ことフ…
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島倉千代子の「人を疑わない性格」を多くの人が応援してきた
中学生のときに東京・中野から千葉市に引っ越しをした。通学路に青い鋭い棘がある、からたちの生け垣があった。これは防犯も兼ねていた。春に白い花が咲き、秋に黄色い実がなっていた。その横を通るたびに当時、流…
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尾崎紀世彦「また逢う日まで」には男女の別れを「2人の意思」にした新しい息吹を感じる
尾崎紀世彦は「また逢う日まで」で、1971(昭和46)年に華々しくデビューした。彫りの深い顔に、長いもみあげ、背が高く、まるで外国人の風貌であった。圧倒的な歌唱力に誰もが魅了された。 作詞阿…
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青木まり子の「ふるさとはアジア」を聞くと水と緑の風景が蘇る
十数年前に御茶ノ水駅から、明大通りの楽器屋をたまには探索しようと裏路地を歩いていると、千代田区報の掲示板があった。普段は見向きもしないが「青木まり子」の文字が飛び込んできた。 その案内を見て…
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娘の卒業式で在校生が披露した「なごり雪」に涙
娘の高校の卒業式に出たのはもう32年も前のことである。自宅から高校までは波打つ大地を歩き15分ほどである。それまで全く学校に顔を出すことはなかった。 妻も外で忙しく働いているので「家に居るな…
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「今回は」「これはイケマス」…宇崎竜童の粘りと怯まない姿
1975(昭和50)年、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が巷に流れたとき、ロック調の歌謡曲に衝撃を受けた。それまでの日本のロックは英語訛りの巻き舌で、何を歌ってい…
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必死で働き続けた母が台所でそっと歌っていた「雪の降る街を」 作曲の中田親子は日本の童謡の宝
小学生の頃、冬になると「雪の降る街を」の曲を何となく口ずさんでいた。その頃の東京は今よりずっと底冷えがして、通学のときに霜柱を踏んで、音を立てて歩いていた。 大雪が降り、学校が休校になると、…
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藤圭子の登場にオヤジどもは「女のやりきれない怨念」に身震い
大正時代に発表された「ゴンドラの唄」は、その後100年が過ぎ、今も長く歌われている。 作詞は吉井勇、作曲は中山晋平。当初は淡々とした6拍子の長調で影が薄く人気がなかった。 だが「いの…
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マサヤンこと桑名正博の「月のあかり」は、大阪の歌として大事に歌われる
桑名正博は1979(昭和54)年、作曲筒美京平・作詞松本隆という名コンビの「セクシャルバイオレット№1」で華やかにテレビ界に登場した。男前で少しヤンチャな雰囲気に女性群はひれ伏した。 いわゆ…
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前川清のように、昭和の歌謡曲のど真ん中を歩いてきた人は言語が違う
初めて車を買ったのは、確か2人目の子どもが生まれ、歩き出した1976(昭和51)年ごろであった。それはホンダN360の軽自動車であった。赤い車に妻と子どもは、手足を震わせて興奮していた。知人からなん…
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佐良直美「いいじゃないの 幸せならば」の詞には相手を突き放すインパクトがある
昭和44(1969)年1月。テレビは東大・安田講堂に立てこもった全共闘学生と機動隊との激しい攻防戦を連日報道していた。幕引きは学生逮捕者457人を出し、あっけなく終わった。これを境に新左翼の運動も一…
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振られた恋の歌「そして、神戸」は阪神・淡路大震災の応援歌に
海外を飛び回っている売れっ子のカメラマンが、バブル時代に一息つくために、とハワイ島に別荘を購入した。 彼と仲間に誘われてカイルア・コナの空港に降りたとき、ハイビスカスとプルメリアの甘い匂いに…
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坂本九さんがギター片手に一人で電車に乗ってやって来た!
大学生の頃に中央線の国立によく遊びに行っていた。同級生の恋人がいたので、一橋大学の校庭や喫茶店、古本屋を休日になると散歩していた。 ある秋の日に駅の改札口を出ると「坂本九さん大歓迎」と大きな…