保阪正康 日本史縦横無尽
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ヒトラーは映画のナレーションを強い表現に変えていった
今日から何回かに分けて、ヒトラーの人物像を描いていく。戦間期をフルに利用して戦争を引き起こした張本人である。戦間期の善玉としてあえてチャーチルの名を挙げれば、悪玉の最たるものはヒトラーであろう。ヒト…
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ガンサーがヒトラーに見いだしたホラ、ヒステリー、嘘
戦間期の指導者として名が挙がるのは、やはりアドルフ・ヒトラーであろう。ジョン・ガンサーは1936年に「ヨーロッパの内幕」でヒトラーの人間像についてかなり詳しく書いた。その部分はのちにガンサーの人物論…
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東條英機はこれまでの政策を進めると大見えを切った
日米関係がこじれているにもかかわらず、首脳会談が一度も開かれなかったというのも、確かにおかしい。昭和16年(1941)8月に、一度は近衛首相とルーズベルト会談の案が持ち上がったが、結局は具体的な成果…
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「彼は伍長上がり、自分は陸軍中将」東條英機はヒトラーの真の怖さを知らなかった
戦間期の指導者を見ることで、それぞれの国が20世紀をどのような方向に進めようとしたのかがわかってくる。ジャーナリストの筆は、それを見抜いたか否かが問われることになる。むろんそれにはジャーナリストが自…
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20世紀前半の2つの世界大戦で日本が陥った「ねじれ」を解明する
第2次世界大戦を指導した軍人と政治家は結果的にというべきだが、いい意味でも悪い意味でも歴史的存在だったと言える。チャーチル、ルーズベルト、トルーマン、スターリン、そしてヒトラー、ムソリーニ、アジアで…
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「国民を救うために戦っている」デーニッツは演説で連合国の分断を図った
1945年5月1日にヒトラーが死亡したと、ドイツのラジオ放送が正式に認めた。さらに後任には海軍のデーニッツ元帥が就任し、現状のまま戦争は継続するとの方針も国民に伝えられた。ヒトラーの死は、ベルリンの…
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ヒトラーの死後、10万人ものドイツ人が自殺した
ヒトラーは閣僚名簿を書き残した後に、彼らに世界中にこの国の名誉を高めてほしいと伝えている。そして「国家社会主義国家を打ち立てるというわれわれの責務が、全ての人が自分の利益より共通の利益に奉仕する義務…
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独裁者ヒトラーを怒らせたハインリヒ・ヒムラーの「裏切り」
ヒトラーの遺書の政治用の部分は、その冒頭で次のように記されている。 「私は死の前に、前国家元帥のヘルマン・ゲーリングを党から除名し、(略)帝国議会での私の声明によって享受してきたすべての特権を…
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責任逃れと自己陶酔のヒトラーの政治的遺書
イギリスの軍人チームが発見したヒトラーの遺書の続きを紹介していく。 遺書の前半部分には「私あるいはドイツの誰かが1939年に戦争を望んでいたというのは真実ではない。戦争は、ユダヤ人の血筋ある…
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ヒトラーはドイツが平和を望み連合国に裏切られたと批判した
ヒトラーの遺言は、イギリスの軍事チームがヒトラーの秘書であるボルマンの副官が持っていたスーツケースの中から発見したとされている。個人用と政治用の2通があったという。それらはアメリカ、イギリスなどの主…
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ヒトラーの遺書はヒミツのスーツケースに隠されていた
ドイツの敗戦時に、連合国は各国ともヒトラーの存在を必死に捜した。どの国がその身柄を拘束するのか、それはもうひとつの別の戦争だとも言われた。スターリンは何としても生きた状態で捕らえて自分のところに連れ…
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ムソリーニの無残な死体に日本の戦争指導者は恐怖で震えた
第2次世界大戦の終結時に、ドイツ、イタリアなどの枢軸国側では敗戦とともに2人の指導者が無残な形で死を遂げた。ヒトラーが自分だと分からないように完全に焼殺せよと命じたのは、死してなお屈辱的な扱いを恐れ…
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第2次世界大戦の終結によって各国の指導者が入れ替わった
第2次世界大戦の終了前にチャーチルが労働党に敗北を喫したのは何故なのか、アメリカのメディアはその理由を分析している。ニューヨーク・タイムズは、初めは感情的に反発していたが、やがて冷静にその分析を進め…
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戦時下の総選挙、チャーチルはなぜ労働党に負けたのか
原爆投下が第2次世界大戦の終結につながったのは間違いないが、この原爆投下とソ連の参戦のいずれが終結の主たる理由なのかは、戦後にあっても各方面から論じられた。ソ連はむろん自国の参戦が最終的な引き金にな…
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日本の敗戦の裏側でさまざまな国の思惑がぶつかっていた
アメリカ側は、マジックによって日本の姿をある程度つかんでいた。しかし結果的には、日本政府のほんのわずかな政策や軍事的対応に過ぎなかった。なぜなら日本政府は限られた中立国と外交交渉を持っていただけで、…
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原爆投下をめぐるアイゼンハワーとスチムソンの衝突
ヨーロッパ戦線を指揮してきたアメリカのアイゼンハワー元帥は連合国軍総司令部でドイツ占領の具体案を進めていた。原爆がテニアンに運ばれ、投下の準備に入っている頃、アイゼンハワーはアメリカの陸軍長官のスチ…
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原爆の1カ国独占を危険と考えソ連のスパイになった研究者
アメリカ側は広島に原爆を投下した当事国でありながら、広島に入ってその被災の状況を丹念に検証したのは9月に入ってからのようであった。日本の軍事研究調査のために、コンプトン調査団の一行が行ったとされてい…
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スターリンが8月6日、広島への原爆投下にショックを受けた理由
ポツダム会談を終えて、スターリンがモスクワに戻ったのは7月の終わりであった。スターリンはマンハッタン計画の内容も、原爆実験も、スパイ網から上がってくる報告によってかなりの部分を知っていた。だからとい…
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スターリンは新型爆弾を速やかに使って欲しいと要請した
アメリカが広島に原爆を投下した折に、スターリンはどのような態度を取ったのか。第2次世界大戦のあとは、いわゆる冷戦の時代に入るのだが、この時代は米ソとも核兵器を持っているため、もし第3次世界大戦になっ…
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放射線被曝のイワノフを救ったのは飲酒だったという結論
2人のソ連大使館の館員が広島、長崎でほぼ同じ日程で同じ行動をし、1人は東京に戻るや体調を崩し、すぐにモスクワに戻されて治療にあたっている。当時、その症状は不明であったが、のちに放射線被曝による体調の…