保阪正康 日本史縦横無尽
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原爆投下をめぐるアイゼンハワーとスチムソンの衝突
ヨーロッパ戦線を指揮してきたアメリカのアイゼンハワー元帥は連合国軍総司令部でドイツ占領の具体案を進めていた。原爆がテニアンに運ばれ、投下の準備に入っている頃、アイゼンハワーはアメリカの陸軍長官のスチ…
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原爆の1カ国独占を危険と考えソ連のスパイになった研究者
アメリカ側は広島に原爆を投下した当事国でありながら、広島に入ってその被災の状況を丹念に検証したのは9月に入ってからのようであった。日本の軍事研究調査のために、コンプトン調査団の一行が行ったとされてい…
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スターリンが8月6日、広島への原爆投下にショックを受けた理由
ポツダム会談を終えて、スターリンがモスクワに戻ったのは7月の終わりであった。スターリンはマンハッタン計画の内容も、原爆実験も、スパイ網から上がってくる報告によってかなりの部分を知っていた。だからとい…
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スターリンは新型爆弾を速やかに使って欲しいと要請した
アメリカが広島に原爆を投下した折に、スターリンはどのような態度を取ったのか。第2次世界大戦のあとは、いわゆる冷戦の時代に入るのだが、この時代は米ソとも核兵器を持っているため、もし第3次世界大戦になっ…
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放射線被曝のイワノフを救ったのは飲酒だったという結論
2人のソ連大使館の館員が広島、長崎でほぼ同じ日程で同じ行動をし、1人は東京に戻るや体調を崩し、すぐにモスクワに戻されて治療にあたっている。当時、その症状は不明であったが、のちに放射線被曝による体調の…
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ソ連大使館員は広島、長崎から東京に戻り体調が悪化した
2人のソ連大使館員、イワノフとセルゲーエフが長崎駅に着いたのは8月17日の朝だったという。その列車は長崎駅までは行かず、2つ手前の小さな駅で停車し、客はそこで降ろされた。2人は駅長に話をつけ、荷物の…
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広島市街は鳥の鳴き声は聞こえず、犬や猫もなく、死体の山だった
2人の駐日ソ連大使館の書記官は、日本人の付き添いもなく、広島市内を見て回ったというのだ。実はイワノフは、広島を何度も訪れたことがあったという。それに広島の地図も持っていた。しかし駅から街の中心までは…
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イワノフとセルゲーエフの2人の大使館員が広島を調査した
広島に原爆が投下された日、東京の駐日ソ連大使館の書記官2人がスターリンの命令ですぐに広島に赴いたというエピソードを紹介した(547回目)。私は1990年代初めのモスクワでその経緯を当事者から聞く約束…
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東大助教授だった丸山眞男は高級参謀に敬語で迎えられ現代史の講義を頼まれた
軍人たちは、原爆を太陽の光を利用した爆弾と早合点し、陽光にあたらなければ大丈夫だと部内に伝達した。根拠があろうとなかろうと、とにかく被害を軽微に見せて戦争継続を企図しようとしていたのである。 …
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司令部の軍人たちは原爆を「太陽の光を利用する爆弾」と見ていた
広島に原爆を投下され、鈴木貫太郎内閣は天皇の意思を受けて一気に終戦工作に向かった。日本の軍部はこの投下に対してどのような対応をしたか、そのことを整理しておく必要がある。なぜなら日本を含め世界の知識人…
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政治学者・丸山眞男はラジオのトルーマン演説で原子爆弾だと知った
広島への原爆投下によって、被災の体験を持つことになった日本の知識人は、どのような感想を抱いたのか。そのことを詳しく調べていくべきだと思うが、差し当たり広島県の宇品に一兵士として籍を置いていた政治学者…
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丸山眞男が目撃した原爆の「悪魔の光」
戦時下に広島にいて被爆した知識人は、どのような考えを持ち、戦後社会にどのような見解を伝えたのだろうか。私たちはそのような歴史的な意味を正確に知っておく必要がある。 戦後、民主主義に立脚して、…
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校庭は一瞬で地獄絵図に…「必ず復讐してくれ」と叫んで死んだ中学生
原爆投下に日本の知識人は、どのような反応を示したのか。それを確認することは、人類史上で初めて使われた大量殺人兵器の被災者となった日本人が、今後も世界に向けてその非道さを訴えていかなければならない宿命…
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科学者と軍部は米国のラジオ放送で広島に投下された新型爆弾が原爆だと気づいた
テニアンから飛んできた原爆搭載機が広島に投下したのは8月6日の午前8時15分である。これが原爆だとは軍事の技術将校たちは全く思わなかった。軍事機構の中にも科学者たちは多かった。 帝国大学での…
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エノラ・ゲイ号はテニアン島ではなくワシントンに無線を打った
大本営陸軍部の情報参謀・堀栄三は、情報分析に抜きんでた才能を持っていた。太平洋戦争でアメリカ軍の反攻によって、日本がかつて制圧した南洋の島々が次々に奪回されていくとき、堀は次にアメリカ軍のどの部隊が…
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ポツダム宣言黙殺は原爆を使いたがるアメリカ軍上層部にとって好都合だった
アメリカが原爆の投下実験に成功したのは7月16日であった。その報告はすぐにポツダムにいるトルーマン大統領にも伝えられた。7月24日には参謀総長代理など軍部の首脳部がまとめた原爆攻撃の最終案がまとめら…
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日本はソ連が対日戦に踏み切らないよう必死だった
想定のひとつは、日本がこの頃にソ連にいかに媚態を示していたかという点だ。日本はソ連に、この戦争のアメリカ、イギリスとの講和の仲介を依頼していた。正式には、モスクワに特使を送り、仲介をより具体的にして…
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ソ連大使館員が被爆直後の広島を視察 それは今も謎として残る
駐日ソ連大使館の書記官が、被爆直後の広島に入ったのはむろん史実として伏せられている。つまり、これまで日本では公式に語られていない。東京から広島までは、距離にするとほぼ700キロ離れているのだが、東京…
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広島への原爆投下で、スターリンは何を調べようとしたのか
東西冷戦下の旧ソ連の諜報員の話をさらに続けよう。私がモスクワで新聞記者たちと諜報員の話を聞いたのは旧ソ連の社会主義体制が崩壊した直後であった。生々しい話が多く、私はこの種の話が全て事実だとは思えなか…
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旧ソ連がアメリカ中に情報網を築いた可能性
ベトナム戦争では北ベトナムを攻撃するアメリカの爆撃機や偵察機がしばしば北ベトナム軍によって撃墜された。パイロットたちは脱出しても大体が捕虜として捕まる。そこで北ベトナムの将校から取り調べを受ける。こ…