保阪正康 日本史縦横無尽
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神奈川県警は「死のう団」に譲歩しつつ嫌がらせを続けた
昭和8年10月16日、死のう団の盟主である江川桜堂は団員の母親などと共に、横浜検事局に特高課長や特高課員など10余人を不法監禁、人権蹂躙、傷害で訴えた。この告発状は新聞にも詳しく報じられた。例えば当…
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「カナトク」は女性団員を裸にして性的な拷問を行った
彼らは異様な風体で「死のう、死のう」と叫びながら、30人ほどで行進を始めた。死のうの意味は、日蓮の唱える「不自惜身命」を現代風に表した語だというのであった。彼らは鎌倉の鶴岡八幡宮を出発してまもなく警…
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5カ所で5人が割腹自殺を試みた「死のう団」事件の背景とは
昭和という時代にはさまざまな事件が起こった。その中には時代を反映した犯罪も少なくない。貧しさゆえの犯罪、政治的思惑が絡んだ犯罪、あるいは男女関係のもつれなど、この時代の特徴が浮かんでくる。今回からは…
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特攻隊員に「爆弾を投下したら逃げろ」と囁く下士官もいた
太平洋戦争下で特攻死した搭乗員たちはどれほどいたのだろうか。実はその詳細はわかっていない。特攻隊でなくても、そのような死を受け入れた搭乗員もいたであろうし、逆に特攻隊員であっても死を受け入れなかった…
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講和のため日本人1400万人を特攻で死なせると大西は言った
先に述べたように、2大汚点のひとつである「特攻は全員が志願した」との言い方は、特攻を生み出した責任が隊員個人に転嫁されることを意味する。同時に隊員は「救国の英雄」呼ばわりされていく。国を挙げてのこの…
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特攻作戦への歴史的な批判を恐れた「軍事指導者」たち
特攻作戦には2つの誤伝がある。ひとつは海軍の場合、第1航空艦隊司令長官の大西瀧治郎の発案によるとの説、もうひとつは全員が自ら特攻を志願したという説。なぜこの説が流布してきたかといえば、特攻作戦が20…
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戦後に自決 特攻作戦の責任者だった大西瀧治郎の矛盾と混乱
陸軍の特別攻撃隊による体当たり攻撃が実行される前に、海軍では第1航空艦隊司令長官の大西瀧治郎(写真)が特攻を主導していたというのが一般的な受け止め方だった。実際に特攻作戦が現実化していくのは昭和19…
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出撃の前に失禁、錯乱…腰が抜けて飛行機に乗れない者もいた
平成10年のころ、千葉県のある市での講演の後、講師控室に老人とその付き添いの娘さんが訪ねて来た。杖をつく姿は生気を失っている。自ら死が近いことを認め、「以前、あなたの特攻隊の遺書について分析した書を…
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「神州不滅」と書き「護国の鬼」となって自己を抹殺した
特攻隊員の最期の姿はよく「潔く」という言葉で表現される。しかし彼らが自らに与えられた任務を受け入れるときの心理は人によって異なっていた。特攻隊員の手記には自らを「護国の鬼」、あるいは「皇国を守る尖兵…
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のみ込みが早い学徒兵たちは都合のいい特攻隊員だった
私はこれまで、特攻隊員の遺族、出動命令の出る前に終戦となった隊員、隊員の乗る特攻機の整備兵、基地で隊員無線を聞いていた参謀など多くの関係者から話を聞いてきた。 人間魚雷「回天」で連日訓練に励…
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クリスチャンの特攻隊員が密かに残した手紙に戦時下の心理
私の取材メモから、もう一人の特攻隊員の残した遺書について触れておきたい。かつて定期的に続けていた昭和史講座で、いつも最前席に座って講義を聞いていたAさんは、ある大手銀行を定年退職した温厚な人物であっ…
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「心残りはアメリカを見ずに死ぬことさ」と言い残した学徒特攻隊員
私は特攻隊員・上原良司の遺書が、この作戦の無慈悲で残酷な意味を根本から問うていると考えている。アメリカの艦船に突入した時、彼はどのような言葉を呟いただろうか。実は司令部の参謀たちは、学徒の特攻兵たち…
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特攻兵士が残した「全体主義の国家は必ず敗れ去ります」の言葉
餓死、玉砕、特攻は、太平洋戦争の指導者たちの戦争責任である。その責任を曖昧にしては、亡くなった兵士たちに申し訳ない。戦争自体の批判や肯定などとは全く別に、あのような戦争指導を陸海軍の指導者や軍令部門…
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天皇を欺いて「死んでもらわなければ困る」という立場に
万朶隊の隊員に陸軍伍長の佐々木友次がいた。昭和19年11月12日の攻撃に佐々木は4番機で出撃することになっていた。九九式双発軽爆撃機の操縦には4人が必要とされたが、佐々木は800キロもの爆弾を積み、…
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海軍と張り合うために陸軍は大げさなウソを発表した
陸軍の特別攻撃隊「万朶隊」は11月12日にレイテ湾のアメリカ艦船に体当たり攻撃を行った。陸軍初の特攻作戦だったが、実際は艦船に突っ込んでいなかった。うまく対象になる空母を見つけられなかったせいもあり…
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万朶隊は「戦艦と輸送船を撃沈した」と発表されたが…
陸軍特別攻撃隊の「万朶隊」は昭和19年11月12日にカローカン飛行場から出撃することになった。この日まで出撃が延びたのは隊長の岩本益臣と他の隊員がマニラに打ち合わせに行く途次にアメリカ軍の航空機と出…
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陸軍で最初の特攻隊「万朶隊」20代前半の搭乗員が選ばれた
体当たり攻撃という戦術が組織的な決定事項となったのは、実は海軍よりも陸軍の方が早かった。これまで見てきたように航空総監と航空本部長に就任した後宮淳は軍政、軍令の権力を握っていた東條英機と意を通じてい…
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「体当たりは日本陸軍の真の精神」に誰も反論できなかった
高木俊朗が陸軍特別攻撃隊を詳細に調べて著した一連の書は、今では基本的な文献である。高木は陸軍航空本部の報道班員として特攻隊員の苦悩を見た人物だけに、戦後になり、どのような形でこの戦術がとられたかを怒…
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東條英機のような上等兵止まりの輩が戦争を指導していた
これから何回か、陸海軍の特別攻撃隊にふれる。餓死、玉砕、特攻という形の戦争は昭和という時代を特徴づけている。戦争という手段が良いとか、悪いとか言う前に、なぜこういう戦争になったかを近代日本史の流れの…
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国民には「ビラを読むな」と脅し家族は避難させた警察官
国民の退嬰的空気は戦争が進むにつれ、より一層強まった。やがてそれは庶民にとっても生きるか死ぬかの分かれ目になった。サイパンが落ちてからしばらく後に、B29が連日、日本本土に爆撃を加えるようになった。…
