本郷史観 日本を変えた傑物たち
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井伊直政(5)井伊家は徳川家康が作り上げた「試作品」だった?
直政の遺領は18万石。このうち3万石を譲られ、直勝は上野・安中に移りました。残る15万石が直孝の領地となります。 特筆すべきは、このとき井伊谷以来の家来たちが、みな直勝について安中へ行ったこ…
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井伊直政(4)超ブラックな家風 昔から家臣が少ない
井伊家の重臣というと、筆頭家老の木俣家が1万石、次席家老の庵原家が5000石、三席の長野家が4000石と続きます。もともと井伊家重代の家臣というと、3500石の中野家くらい。あとはみな、家康の命によ…
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井伊直政(3)自分に厳しく、人にも厳しい 家臣には苛烈な奉公を求めた
直政は徳川家臣団の中では「遅れてやって来た」若者でした。ところが、めきめきと頭角を現し、家康が関東に移されると家臣団中、ナンバーワンの地位に就きます。 彼はとにもかくにも献身的に家康に奉公し…
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井伊直政(2)「遅れてやって来た若者」が、徳川家臣団第1位の禄高に
直政が家康から特別扱いされた原因として、万千代時代の彼は家康の寵童だった、という話があります。直政はこのあと徳川家臣団中で随一の立場に駆け上がりますから、寵童説はまことに都合が良い。 でも残…
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井伊直政(1)15歳の時、家康に出仕した「新参者」だった
以前に取り上げた榊原康政とともに「徳川四天王」に数えられる、井伊直政について書いていきます。年齢は康政と有名な本多忠勝(平八郎。四天王の一人)が同年。直政は彼らより13歳下。仲はそれぞれに良好だった…
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上杉鷹山(5)お忍びの殿さまが領民の農作業を手伝ったエピソード
上杉鷹山という人を象徴する文章があります。家督を養子の治広に譲る際に与えた「伝国の辞」です。 そこには3つのことが書かれています。①藩は先祖から子孫へ伝えるものであって、藩主の私物ではない。…
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上杉鷹山(4)進まぬ借金返済…同志も藩政改革から脱落
江戸時代の藩は、多かれ少なかれ財政難に苦しんでいました。これは殿さまが無能だったから、というだけではありません。幕藩体制そのものに構造的な問題があったのです。 社会の上層には武士がいます。い…
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上杉鷹山(3)藩政改革で真っ先に倹約に取り組み、自ら藩主の生活費を7分の1に減らした
上杉治憲、のちの鷹山が藩政改革で最初に取り組んだのは、当然ながら倹約でした。家老の竹俣当綱や、財政に明るい莅戸善政を登用して支出を削ります。何よりすごいのは、まず殿さま自身が痛みを引き受けたことです…
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上杉鷹山(2)高鍋藩から養子に…実兄の秋月種茂も名君として知られる
上杉鷹山は寛延4(1751)年、日向高鍋藩2万7000石の藩主・秋月種美の次男として江戸で生まれました。実母が早くに亡くなったため、母方の祖母である瑞耀院に引き取られて育てられます。 この瑞…
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上杉鷹山(1)米沢藩は天下に知られた貧乏藩だった
名君の中の名君、上杉鷹山(1751~1822年)の話をしたいと思います。出羽国米沢15万石の殿さまです。 誰にも忘れ得ぬ風景というものがありますよね。ぼくにとって、その一つが米沢にある上杉家…
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源義経(5)退くを考えない…「勢い」を優先して英雄になり、そして滅びた
壇ノ浦で平家を滅ぼしたあと、周知のように義経は兄の頼朝と対立します。初めのうちは何とか頼朝の許しを得ようとしていましたが、それが不可能だと悟ると、ついに兄と戦う決意を固めました。後白河上皇から頼朝追…
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源義経(4)運が良かっただけ…危うさ際立つ「屋島」への奇襲作戦
義経の危うさが最もよく表れているのが、屋島の戦いでしょう。元暦2(1185)年2月18日、義経は平氏の本営が置かれた屋島を攻撃するため、渡辺津、現在の大阪市から船出しました。ところが、その夜は暴風雨…
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源義経(3)進むのみを知って退くを知らぬ猪武者
趙軍を撃破したあと、韓信の部下たちは不思議に思って尋ねました。 「兵法では山を背にして陣を敷けと教えているのに、今回はその逆で、川を背にして戦いました。それなのになぜ勝てたのでしょうか」 …
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源義経(2)背水の陣…「逆櫓論争」梶原景時と激論
源範頼が山陽道を西へ進んでいたころ、義経は京都に残って治安維持に努め、後白河上皇との結びつきを強めていました。これを見た頼朝は、「あいつはいったい何をやっているのだ」と猜疑心を募らせたのでしょう。義…
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源義経(1)一ノ谷の戦いで「鵯越の逆落とし」は本当にやったのか
寿永3(1184)年、一ノ谷の戦いが起きました。治承4(1180)年に始まった源平の戦いは、すでに4年を迎えていました。 東国では源頼朝が勢力を固め、北陸から京都へ進出した木曽義仲も平家を追…
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徳川光圀(5)はたして光圀は名君だったのか
あるテレビ番組から、「すごいと思う徳川家の人々」を7人挙げてほしいというアンケートを受けたことがあります。普通に考えれば、1位は徳川家康でしょう。しかし、ぼくは歴史研究者ですから、ひねりがほしい。そ…
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徳川光圀(4)明治の元勲にも影響を与えた南朝正統論の危うさ
光圀が「大日本史」で示した南朝正統論は、明治以後、思わぬ形で大問題に発展します。明治43年、1910年の大逆事件で逮捕された幸徳秋水は、法廷で「いまの天子は、南朝の天子から三種の神器を奪い取った、北…
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徳川光圀(3)完成まで200年…「大日本史」編纂という巨大な志
光圀の最大の仕事は、やはり「大日本史」の編纂です。彼は彰考館を設け、神武天皇以来の歴史をまとめる事業を始めました。この事業は水戸藩において受け継がれ、200年以上続き、明治時代に完成します。全397…
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徳川光圀(2)伯夷・叔斉に惹かれた兄を差し置いた男
光圀を考えるうえで、避けて通れない話があります。伯夷・叔斉の故事です。 古代中国の殷の末期、孤竹という国に伯夷と叔斉という兄弟がいました。父である王は、弟の叔斉に王位を継がせようとします。そ…
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徳川光圀(1)水戸黄門は全国漫遊などしていない 主に出かけたのは江戸と領地の往復
「水戸黄門」といえば、助さん(佐々木助三郎)と格さん(渥美格之進)をお供に連れて全国を漫遊し、悪代官を懲らしめる世直し旅の老人、という印象が強いでしょう。 けれども、これはもちろん後世の物語で…
