本郷史観 日本を変えた傑物たち
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正岡子規(1)2002年に殿堂入り…「野球」の名付け親は本当?
正岡子規と聞くと、病床に横たわり、苦痛に耐えながら俳句を作り続けた人、という姿が浮かびます。肺結核を患い、さらに脊椎カリエスに苦しめられ、34歳の若さで亡くなった。たしかに、その短い生涯の後半は病気…
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与謝野晶子(5)問題多かった鉄幹への愛情の深さ
与謝野鉄幹は1915(大正4)年の第12回総選挙に京都府郡部選挙区から無所属で出馬し、落選しました。 その4年後、慶応義塾大学文学部教授に就任、1932(昭和7)年まで在任し、水上滝太郎、佐…
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与謝野晶子(4)原稿料を稼ぎ、家事をこなし、11人の子どもを育てる
研究者として、ぼくは妻である本郷恵子に負けるつもりは毛頭ありません。ただ、これはえらいな、と心から感服しているのは、彼女が「自分は女性だから」と一切口にしなかったことなんです。男女は関係ない。仕事の…
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与謝野晶子(3)34歳で夫・鉄幹を追いかけてパリに行く
「山の動く日来る」という与謝野晶子の歌は有名です。でも、ぼくが瞠目したのは、その後の言葉です。 「一人称にてのみ物書かばや。われは女ぞ。一人称にてのみ物書かばや。われは。われは」 強烈で…
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与謝野晶子(2)君死にたまふことなかれ…単純に「反戦歌人」と言えるのか
明治34年、23歳の晶子は28歳の鉄幹と結婚しました。鉄幹には奥さんがいて、恋人もいた。晶子はそうした女性たちを蹴落として鉄幹を獲得したわけです。さあ、ここからの2人の前途は明るい!……はず。 …
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与謝野晶子(1)プレイボーイの鉄幹と歌会で出会いたちまち恋愛関係に
学校の先生という立場を利用して、女性の学生と恋愛する。現代であれば、かなり危険な行為です。とくに先生という立場を利用したとなると、言語道断。一発でクビですね。 ところが明治の昔には、「教師の…
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平塚らいてう(4)100年前の論争はいまも終わっていない
母性保護論争を経て、平塚らいてうの関心は、女性の社会的・政治的な権利へと向かっていきます。1919(大正8)年、らいてうは市川房枝、奥むめおらとともに、新婦人協会を設立しました。日本で初めて本格的に…
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平塚らいてう(3)理想だけでは生きられない…母性保護論争が生まれた理由
「青鞜」を創刊し、「元始、女性は太陽であった」と高らかに宣言した平塚らいてうは、女性の自立を象徴する存在となりました。しかし、人生は理念だけでは進みません。彼女自身が家庭を持ち、子どもを育てる立場にな…
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平塚らいてう(2)「元始、女性は太陽であった」と語った人
平塚らいてうは、1886(明治19)年、東京で生まれました。父は平塚定二郎。明治政府の高級官僚でした。裕福な家庭に育ち、幼い頃から良い教育を受けました。 当時、日本は鹿鳴館に象徴される欧化政…
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平塚らいてう(1)専業主婦か、働く女性か…100年前から続く問い
晩婚化が進む現代の日本では、結婚のあり方がさまざまに問われています。いっとき盛んに論じられた「おごり・おごられ論争」などは正直どうでもよいと思ってしまうのですが、一方で専業主婦の問題は、社会の根幹に…
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可児才蔵(5)武芸者たちと立ち合い 倒せるなら槍でも刀でも鉄砲でも
そうそう、愛宕山は日本の放送史にとっても重要な場所です。大正14(1925)年3月22日、日本でラジオ放送が始まりました。 「JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります」という第一声で知…
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可児才蔵(4)「勝軍地蔵」晩年は愛宕権現を信仰
こうして見ていくと、戦場で最も強かった武者は可児才蔵、といってもよいかもしれません。そこでみなさんに問題です。関ケ原で17の首を取ったという豪傑が、福島正則から与えられた禄は、さて、いかほどだったで…
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可児才蔵(3)「負け戦」主君を置き去りにして、さっさと逃げる
いまMLBに、フアン・ソト(ドミニカ共和国出身)という野球選手がいますが、才蔵の人物像を考えていると、ぼくはどうも彼を連想します。おれはすごいバッターだ(実際にそうなのですが)、それに見合うサラリー…
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可児才蔵(2)「陣借り」で参戦 他家の軍勢に加わって腕を売り込んだ
ぼくは山口県の防府で「毛利家文書」の調査をしたとき、「首取り注文」なるものをいくつか拝見しました。○○の戦いにおいて家中の誰それがいくつの首を取った、とズラッと書き並べたものです。 それを見…
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可児才蔵(1)柴田、明智、前田、織田…なぜ主人を頻繁に替えたのか
戦国時代の勇者として名高い可児才蔵は、諱を吉長といいます。本来なら可児吉長と呼ぶべきかもしれませんが、通称の才蔵の方が人口に膾炙しています。本稿も才蔵でいきましょう。天文23(1554)年、美濃国可…
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お与津御寮人(5)「決定する」のは朝廷か、それとも徳川幕府か
ここまで朝廷と幕府との関係を見てきましたが、少し違った角度から考えてみましょう。ぼくは歴史と文学を混同することが、もともと嫌いです。文学の世界で美しく描かれていることと、現実の政治の世界は、分けて考…
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お与津御寮人(4)朝廷の判断だけでは決めさせない「紫衣事件」との共通点
前回の続き、「紫衣事件」です。男女関係への介入から、朝廷が持ってきた宗教的権威への介入へ。朝廷と幕府の対立は、よりはっきりした形をとるようになりました。事態はここからさらに深刻になります。 …
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お与津御寮人(3)幕府に不満…後水尾天皇をさらに苛立たせた「紫衣事件」
慶長14(1609)年7月、猪熊教利の乱行がついに表面化しました。女官5人と烏丸光広ら公家7人との密通が明るみに出たのです。詮議を進めると、その中心に教利がいたことが判明しました。後陽成天皇は激怒し…
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お与津御寮人(2)「朝廷の婚姻慣行」と「武家の婚姻秩序」が衝突した
前回の続きです。朝廷メンバーを幕府が処罰した。そこにはもちろん「政治」があったでしょう。徳川将軍家は朝廷を自らの秩序の中に組み込もうとしていました。ただ、秀忠がためらいなく処断に踏み切った背景には、…
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お与津御寮人(1)単なる宮中の恋愛沙汰では済まなかった
「お与津御寮人事件」と呼ばれる一件があります。元和4(1618)年、お与津御寮人こと典侍・四辻与津子が後水尾天皇の皇子を出産し、翌年にも第2子を出産しました。 典侍を少し解説しましょう。天皇の…
