五木寛之 流されゆく日々
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連載11264回 内田和博のクオリア <5>
(昨日のつづき) この『よみがえるロシア』は、私の記憶に残る対談集だった。 モスクワ郊外のブラート・オクジャワの別荘に彼を訪ねて、かなり長時間の対話を試みたのだ。オクジャワは雪どけ前のソ連で、…
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連載11263回 内田和博のクオリア <4>
(昨日のつづき) 内田クンの編纂した著作目録から、対談・座談本を数えてみた。前述の通り私の第1冊目の対談本は『白夜の季節の思想と行動』である。開高健とか、そんな人たちとの討論をまとめたものだ。 …
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連載11262回 内田和博のクオリア <3>
(昨日のつづき) 内田和博編の単行本・文庫の刊行年譜を眺めて、あらためて思ったのは対談集が意外に少ないことである。 私は以前から書くことと喋ることを同じレベルで考えてきた人間だ。 ブッダを…
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連載11261回 内田和博のクオリア <2>
(昨日のつづき) 2人の「ウチダくん」のもう片方が、内田和博氏である。彼が私の前にあらわれたのは、もう数十年も前のことだ。当時は彼のことは何も知らなかった。ただ私の書くものを初期の頃からほとんど読…
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連載11260回 内田和博のクオリア <1>
<細く、長く>というのが、私のひそかな信条である。いや、信条などというご立派な傾向ではない。生れながらの性癖といったほうがいいだろう。 なにごとも熱っぽいのが苦手である。 自動車レースでいうな…
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連載11259回 49年目の泉鏡花賞 <5>
(昨日のつづき) これまで鏡花賞が歩んできた道を、あれこれ回顧している折りに、突然、瀬戸内寂聴さんの訃報が届いた。 おん年99歳とあれば、希なる長寿である。しかし、気持ちとしては意外に思われる…
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連載11258回 49年目の泉鏡花賞 <4>
(昨日のつづき) 第1回目の選考委員の中に、森山啓さんの名前を見て、これは誰だろうと首をかしげる若い人もいるかもしれない。 森山さんは、私がたって委員就任をお願いした地元在住の作家のお一人であ…
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連載11257回 49年目の泉鏡花賞 <3>
(昨日のつづき) 四十数年前の鏡花賞は、すこぶる情緒があった。セレモニーもそうだし、会の終った後の流れのあれこれが楽しかったのだ。 初期の頃の選考委員は、井上靖さん、瀬戸内晴美さん、吉行淳之介…
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連載11256回 49年目の泉鏡花賞 <2>
(昨日のつづき) 泉鏡花文学賞には、3つの部門がある。 1つは全国の文芸ジャーナリズムを視野に入れた文学賞で、その年刊行された作品の中から、地元の推薦委員会によって候補作を推薦された作品を中心…
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連載11255回 49年目の泉鏡花賞 <1>
金沢へいってきた。恒例の泉鏡花文学賞の授賞式に参加するためだ。年末のあわただしい日程の隙間をやりくりしての瞬間旅行である。 泉鏡花文学賞は金沢の文学賞である。文学賞というのは、ふつう大出版社か新…
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連載11254回 一九五〇年代の記憶 <4>
(昨日のつづき) 当時、私たちの仲間は、フランス文学派とロシア文学派に分かれていた。カミュ、サルトルの全盛時代だったが、一方でちょっとクラシックな『ジャン=クリストフ』や、『チボー家の人びと』など…
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連載11253回 一九五〇年代の記憶 <3>
(昨日のつづき) きょう3日は宮崎日日新聞のインタヴューのあと、『一期一会の人びと』のゲラを読み返す。これは内田裕也と川端康成と、ミック・ジャガーと浅川マキをごっちゃにした本で中公から出る。あとマ…
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連載11252回 一九五〇年代の記憶 <2>
(昨日のつづき) 1960年代というのは、比較的、印象が強烈だ。 それにくらべると、50年代というのは、どこか鮮やかな彩りがない。朝鮮戦争もベトナム戦争にくらべると、なぜか記憶が曖昧である。米…
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連載11251回 一九五〇年代の記憶 <1>
1950年代の思い出話を書く。 私が九州から上京したのは、1952年(昭和27年)の春だった。 博多から東京駅まで、ベラぼうに時間がかかったのをおぼえている。特急は料金が高いので、鈍行を乗り…
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連載11250回 「私の親鸞」そとがき <5>
(昨日のつづき) 親鸞と私の出会いは、そういうものだった。そして私は親鸞の思想に触れることで、自分の生きる意味を示されたような気がした。しかし、頭で理解することと、体全体で実感することはちがう。 …
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連載11249回 「私の親鸞」そとがき <4>
(昨日のつづき) 私が金沢に移住したのは、個人的な事情もあった。だが、それ以上に東京の今の生活から逃亡したい、という気持ちのほうが強かったことはまちがいない。 金沢にいって、しばらくは無為の日…
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連載11248回 「私の親鸞」そとがき <3>
(昨日のつづき) 引揚げ後の中学、高校時代を、私は一見、快活そうな少年として過ごした。新聞部を立ちあげて幼稚な連載小説めいたものを書いたり、アルバイトに精を出したりした。 『青い山脈』という青春…
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連載11247回 「私の親鸞」そとがき <2>
(昨日のつづき) きのうの原稿で「左右の一冊」とあるのは、「座右の一冊」のまちがい。 なにしろ締切りのギリギリで原稿を入れるので、字の間違いはちょくちょくある。この何十年間、ずっとストックなし…
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連載11246回 「私の親鸞」そとがき <1>
<そとがき>なんて言葉はない。 <まえがき>とか、<あとがき>などというのが普通である。 しかし、こんど出した『私の親鸞』(新潮社刊)には、<あとがき>も<まえがき>もついている。 その上に…
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連載11245回 虚構の真実のラビュリントス <5>
(昨日のつづき) 美術コレクターの間で通用する言葉に「目垢がつく」という表現がある。貴重な名作などを手に入れた場合に、できるだけ人に見せないようにすることを言うらしい。 「あまり人さまにお見せす…