保阪正康 日本史縦横無尽
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ソ連の反革命犯罪で処刑された日本人捕虜たち
インディギルカ号は囚人船であり、広義にはシベリアの金鉱、石炭などの採掘に駆り出されたり、あるいは鉄道の建設、公共施設の造営などに従事させられたりというのが囚人たちの「服役」だった。この遭難事件がソ連…
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コリマ金鉱の収容所では1938年の1年間で2万6000人が処刑された
ウラジオストクから東部シベリアに送られる囚人護送船が、宗谷海峡を通過する時に両サイドに日本領が見えた。その時に囚人としての過酷な未来を考えて絶望し、海中に飛び込んで日本への亡命を企図する者もあった。…
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国家の言いがかりでシベリアに送られた青年たち
ソ連のシベリア開発における囚人の動員は1932(昭和7)年ごろから本格的に始まったらしい。この動員での囚人とはむろん刑法上の非道の犯罪者から、スターリンの政策に反対した疑いだけの者まで含んでいるのだ…
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明治新政府とロシア革命に共通する「人権無視」見せしめや社会的制裁目的で
ソ連邦はシベリア開発の労働力確保のために、政治上反体制的な立場の人物を徹底してこの厳寒の地に送った。安い労働力というよりは、見せしめや社会的制裁の意味を込めてのシベリア送りであった。革命の主敵の富裕…
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「日本側が仕組んだ」証言通らず…インディギルカ号の転覆後、政治犯は射殺された
1930年代、40年代に、スターリンは自らに反対する知識人らはいうに及ばず、それ以外の人々も反国家的人物とレッテルを貼ってシベリアに送り込んだ。そのルートがウラジオストクから収容所の入り口に当たるマ…
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インディギルカ号の船長が生存者を見捨てた原因は「囚人」だったから
しかし遭難事故から80時間以上が経過し、救助活動も終えて50時間近く経っている。もし転覆した船底に生存者がいるとすれば、船底に穴を開けなければならない。こうなると陸軍のような巨大組織が救助活動の先頭…
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遭難者395人を救助するも、まだ船内に人がいた。なぜなのか?
インディギルカ号の遭難事故に地元の北海道宗谷の猿払村では、漁民総出で救助活動を行った。ほかに青年団員、消防関係者、それに在郷軍人会などが嵐の静まるのを待って待機していた、その間にも多くの死体が海辺に…
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昭和14年12月12日に起きた1000人乗り「インディギルカ号」遭難の悲劇
ソ連のインディギルカ号(以下、イ号と略す)は、シベリアのマガダンからウラジオストクに向けて、樺太を海岸沿いに南下していた。宗谷海峡から日本海に入って寄港地に向かっていた。ところが日本海を暴風雨が襲い…
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日本の政治家はヨーロッパの「複雑怪奇」にあしらわれた
昭和という時代に、日本とソ連の関係は基本的には仮想敵国であったのだが、一皮むけば隣国としての交流も図らなければならなかった。これまで見てきたように、日本は太平洋戦争の末期には、ソ連を仲介にしてアメリ…
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米英の抗議にも耳貸さず…シベリア抑留者はソ連の「戦利品」だった
ソ連の満州国での暴行や強奪は、いくつかの資料を見ていくと、独自の考えに基づいていたことがわかってくる。独ソ戦の際に、ソ連国内の都市の中には、それこそ破壊の極みに達した地も出た。むろん戦死者の数も戦争…
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GHQ幹部は「A級戦犯を生体実験しろ」と激高した
ソ連側に労務提供や国籍を離れるも可とする文書を提出した大本営参謀に、私が何度か取材を行ったことはすでに書いてきた。その参謀からの証言ではないのだが、一部の参謀には日本は密かにソ連と手を結び、対米英戦…
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米ソ対立を想起し、日本は太平洋戦争の継続を考えていた
敗戦時に日本の軍人がソ連側に提示した文書や資料は、正式の国家的文書ではないようなのだが、なぜこんな妙な形になってしまったのだろうか。このことについてはいまだ十分に精査されていない。何よりどのような文…
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大本営参謀がソ連に提示した要望の歴史的意味
ソ連の「捕虜」となった日本軍の将兵、それに一部民間人はどれくらいいたのか。その正確な数は現在も不明である。ソ連が解体する頃に日本を訪れていた東洋アカデミーのロシア人研究者は、シベリアに連行された「捕…
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大本営参謀は「満州国の日本人」をソ連側に売ったのか?
ソ連邦の崩壊時に、ソ連国内の公的資料や文書が一時的に公開の形になったことがあった。その時にこうした資料をソ連側の関係者を通して入手した人たちも多かった。ソ連側も緩くなっていたということであろう。むろ…
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シベリア抑留では日本人将兵が氷点下30度、眠ったまま死亡した
満州国、樺太、千島列島、さらには朝鮮の一部で武装解除され、ソ連の捕虜収容所に送られた日本人「捕虜」は、推定60万人から70万人といわれた。膨大な人員である。これだけの日本軍人や兵士が、シベリアを中心…
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プーチンが受け継いだ「目的のためには手段を選ばない」哲学
武装解除後に収容所に入れられた日本軍の将兵は1000人単位で大隊をつくり、列車に乗せられた。2カ月分の食料を持参してというわけにはいかず、多くの兵士は着の身着のままで列車に乗った。「ダモイ(帰国でき…
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北海道制圧の代わりに行った日本軍人のシベリア連行
スターリンは北海道北東部の左半分を自国の勢力圏に組み込もうとしていたが、結局はトルーマンの拒否にあい、諦める形になった。軍事で北海道上陸を実行しようという計画もアメリカ側の強い抵抗が予想されるため諦…
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日本の敗戦直後から駆け引きを…スターリンが命じた「北海道上陸作戦」
ワシレフスキーの電文は、関東軍の総参謀長である秦彦三郎に閣下(スターリン)の指令通り伝え、「あらゆる意味で我が軍に好都合の条件が作られた」と報告した上で、クリール列島守備隊の武装解除を要求したとも伝…
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第二次世界大戦の敗戦からひもとく 日本がソ連の衛星国になった可能性
ロシアのウクライナへの軍事侵攻は直接にはどのような弁明、弁解も成り立たないと思うが、むろんロシアにはロシアの言い分があるだろう。ウクライナの反ロシアの動きをネオナチと批判しているが、こういう言葉を用…
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私がロシア人3代記の取材を諦めた理由
ウクライナのゼレンスキー大統領の演説を聞いて、日本国民はどう思っただろうか。言い方が適切か否かは別にして、この演説からはなんとか日本国民の精神的、物質的支援をとの期待が感じられた。44歳のこの大統領…