保阪正康 日本史縦横無尽
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ゼレンスキー大統領が「権力志向型」だったら戦争は拡大しただろう
権力者の心理分析を試みていると、現在の国際社会の指導者に自国の国民を戦争に引っ張っていく危険なタイプはいるのだろうかと思う。ロシアによるウクライナへの軍事侵略は拡大するのだろうか、ということだ。 …
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プーチン大統領だけでなくバイデン大統領も危険な指導者か
アメリカの大統領を精神分析すると、①業績志向②権力志向③愛情志向の3種類に分かれると、かつて精神分析医が論じたことがある。大統領の個人史を見た上で、さらに選挙運動での演説草稿、演説内容などを多角的に…
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米国の大統領候補が目指す3つの理想像…業績志向、権力志向、愛情志向
一般的に、平時と戦時の政治指導者にはどのような違いがあるのだろうか。いや戦争に突き進む時の首相とはどのような性格が強いのだろうか。むろんひとつのタイプだけではない。それぞれの国によって、あるいは戦争…
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「軍国主義的人間像」から抜け出せない日本人
ファシズム体制や軍事主導体制が怖いのは、それが戦争の必要条件だからだけではない。戦争は終わればその後遺症があるにせよ、私の死の恐怖はひとまずは去っていく。真に怖いのは、その体制下でつくられる人間像な…
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「アメリカさん万歳」と叫んでいる…大戦中も北海道には米国への信頼感が眠っていた
今回は北海道を取り巻く環境が歴史的にどう変化したのか、その番外編ともいうべきエピソードを紹介しておきたい。 これまで述べてきたように、北海道は幕末維新の変化の中で、内にあってはアメリカのお雇…
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新島襄は「キリスト教的人間教育には私学でないとダメ」と田中不二麿の依頼をはねつけた
もともと北海道には、当時のアメリカの国際社会での位置付けと、日本社会の北海道の位置付けとを重ねる見方があった。すでに出来上がっている社会の枠組みの中で、新興国アメリカと北海道は、まさに旧来の体質を変…
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新島襄、内村鑑三らクラークが築いたキリスト教人脈の影響力
開拓使はクラークを招いて、明治9(1876)年8月に札幌で農学校の開校式を行った。この札幌農学校は、クラークの見識と学識をもとに開校されることになったが、つまりはアメリカの理想主義的教育の実験所のよ…
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敗者から優秀な人材を確保した薩長政府の巧妙な人心掌握術
アメリカからお雇い外国人を招聘する一方で、開拓使は独自にアメリカに留学生を送った。明治新政府は元年から7年ごろまでの間に、155人の留学生を海外に送り出したが、そのうち33人は開拓使が派遣している。…
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北海道開拓の二重性 米国依存とアイヌ民族への露骨な植民地政策
屯田兵政策は明治政府の国内開発の一手段だが、一面で歴史的には多くの課題や懸案の事項を抱えていた。屯田兵制は明治8年から始まり、明治32年に終わった。そこで、この25年間の近代日本史との関わりについて…
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「薩摩憎し」で西郷軍を追い詰めた屯田兵たちの普通の生活
こうして入植した屯田兵は、細かく決められた細則に基づいての役割と日々の生活を始めた。その細則を見ていくと、意外に厳しい生活が要求されたことが分かる。基本的な立場はこれまで繰り返してきたように、「屯田…
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ロシアの反発を恐れながら屯田兵制を確立 家屋を作り第1陣が入植した
結局、屯田兵制度は明治6(1873)年11月に明治天皇の許可を受けることで、正式に発足することになった。開拓使と陸軍省の対立は、開拓業務については開拓使、防備については陸軍省が責任を負うことで話がつ…
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屯田兵をめぐる黒田清隆、山県有朋の対立 ロシア側の反応は…
明治6年に新政府は全国に徴兵令を公布して、国民皆兵の方針を国民に伝えた。といっても北海道には徴兵令を適用せず、青年男子はまず開発の先兵になることが要求されたのである。この明治6年ごろに、北海道の人口…
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ロシアは巧妙に樺太を開発…日本の北海道開拓防備戦略はアメリカを頼りにしていた
戊辰戦争が一段落ついた頃、ロシアとは樺太を日本との雑居地とすることで話し合いがついていたのだが、実態はロシア政府が巧妙に手を打って自国の領土に変えていった。明治2(1869)年には、ロシア政府は樺太…
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日本は隠忍自重で…樺太の漁場をめぐる日露のきわどい駆け引き
実は日本とロシアの領土を巡る戦いは、幕末から維新にかけては主に樺太が対象になっていた。屯田兵制が確立していく前段階として、樺太(幕府は北蝦夷地と称していた)を巡ってどのようなせめぎ合いがあったのか、…
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軍艦82隻が寄港…「箱館入港艦船数」から読み解くロシアの軍事的関心
ロシアのシベリアへの進出は16世紀後半からだという。この中心になったのがコサック兵である。この兵団は日頃は定まった地域に住み、農業、牧畜、さらには林業などに携わる。しかし一度軍事上の役目が与えられる…
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対露防備どころではない 混乱期に乗じたロシアの千島列島要求
ロシアが樺太と千島列島の両方に関心を持っていることが、安政に入ると次第に明らかになってきた。そこで幕府は蝦夷地の防備に次々と手を打っていった。安政2(1855)年には津軽、南部、仙台、秋田の4つの藩…
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陸戦隊が上陸し兵舎を建設…ロシア海軍の一方的な樺太占領
明治維新に至る過程で、ロシアと幕府との間ではしばしば衝突があった。ロシア側が北海道の根室などに来ては交易を求める。あるいは上陸して警戒中の日本の武士と衝突することもあった。たとえば文化8(1811)…
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ロシアから交易を迫られた日本はロシア南下政策への対抗が急務となった
ロシア人と日本との公的な接触は、寛政4年(1792)9月のことである。いわばロシアの使節ということになるが、陸軍中尉のラクスマンが幕府宛ての書簡を携えて、松前藩にやってきた。彼はかつて漂流してロシア…
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「ロシアは北海道に権限を有する」というミロノフ発言の意図
プーチンのウクライナ侵略は、20世紀型の帝国主義的侵略を21世紀にもほとんど同じ形で再現した点に特徴がある。いわばヒトラーの手法にも通じる怖さがあるわけだが、同時にスターリン的な発想がいくつもの面で…
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たとえ全面否認しても…単なる噂でシベリアに送られたスターリンの圧政
コロリョフはロケットの研究者として、ソ連では名前の知られた人物であった。こういう研究者たちが、反国家的人物として糾弾されるのがソ連社会の不思議なところであった。コロリョフが属していたのは噴射推進科学…