田中秀征 政界回想寸話
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「国会のマドンナ」土井たか子(4)「借りを返して」と意外なお願い
1996年10月の総選挙では、鳩山由紀夫率いる民主党が躍動する。この新党には社会党(社民党)右派の大半が合流した。結果、土井社民党は30議席から15議席に激減することになった。だから羽田での慰労会で…
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「国会のマドンナ」土井たか子(3)村山富市に頼まれて口説いた「党首再登板」
「土井衆議院議長」は結局、1996年9月の衆院解散まで続いた。議長としての土井の存在感は圧倒的であった。 この時期、何かの折に私も言葉を交わす機会はあったが、じっくり話し込む機会はなかった。 …
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「国会のマドンナ」土井たか子(2)「おたかさんブーム」と初の女性衆議院議長誕生
■担がれた人 政治家には、自分から出てきた人と周りから担がれて出てきた人の2つのタイプがある。その典型は村山富市だが、土井たか子も担がれ、押し出された政治家だ。このタイプには野心や名誉欲で動か…
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「国会のマドンナ」土井たか子(1)選挙制度改革への後悔
■落選の慰労会 1996年9月27日、橋本龍太郎首相は衆議院を解散。翌10月20日、小選挙区制を導入して初めての総選挙で、私はまたもや苦杯を喫することになった。ただ、現職閣僚だったため、11月…
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私が見た田中角栄(8)遺言のような最後の演説
闇将軍が疑いを晴らして再び表舞台に立つことを心待ちにしていた人は数多い。しかし、天はそんな願いを聞き入れなかった。 角栄は昭和60(1985)年2月27日の夕方、突然、脳梗塞で倒れて入院して…
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私が見た田中角栄(7)政治手法を掲げたスローガン
■「大学出が考えろ」 田中角栄は日中国交回復を担当する外務大臣に宏池会会長の大平正芳を据えた。 大平は角栄より10歳ほど年上で一橋大、大蔵省を経て池田首相が政界に引き出した。 …
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私が見た田中角栄(6)電撃的な日中国交正常化
■池田首相のウラ安保 宏池会を創設(1957年)した池田勇人首相は、その派を継ぐ大平正芳と田中角栄にこう望んだという。 「自分たちの代はオモテ安保とも言うべき日米安保体制をつくったので、…
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私が見た田中角栄(5)石橋湛山からのバトン
■角栄を毛嫌いした岸 田中角栄と福田赳夫の権力抗争の裏には、後に判明する驚くべき裏話があった。 それは、ポスト佐藤(栄作)の総裁選には福田ではなく、師である岸信介自身が立候補して政権に…
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私が見た田中角栄(4)驚きの初対面「10年間よく頑張った」とあの声で
■岩盤突破 中選挙区時代、私の選挙区(旧長野1区)は定員3人。自民党の大物2人が戦後2議席を独占し、残りの1議席も社会党の指定席のようになっていて、全国一の無風・岩盤選挙区と言われていた。より…
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私が見た田中角栄(3)苦戦の私に思いがけない応援
私が2度目の落選を喫した後の昭和53(1978)年6月のこと。地元で小売商を営む私の兄が同業者たち数人と新潟県にドライブ旅行をした。そして帰ってくると、開口一番「田中角栄さんと会った」と言う。 …
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私が見た田中角栄(2)「保守本流」の再興
安保闘争が終わり、岸信介首相が退陣すると、池田勇人首相による経済の高度成長期が幕を開ける。この池田時代から佐藤栄作時代に角栄は自民党の政調会長、幹事長、大蔵大臣など党や内閣の要職を占める。そして破竹…
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私が見た田中角栄(1)歴史に刻まれる圧倒的な存在感
平成21(2009)年3月、朝日新聞が興味深い世論調査を行っている。「昭和と言えば思い浮かぶ人物を一人挙げよ」という設問だ。 その結果、1位の昭和天皇(31%)は別格として、2位は3位の美空…
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「至誠の人」村山富市(9)戦後50年の「村山談話」で奮起
1995年7月末、武村正義蔵相が場所と時間を決め、私は赤坂のうなぎ屋「重箱」で村山首相に会った。店の前に集まった記者たちが「新党問題ですか」と聞くから「そんなところだ」と答えた。 ■最後の説得…
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「至誠の人」村山富市(8)大惨事が相次いだ1995年
1995年1月16日、私は村山首相と会う約束を交わしており、夜8時ごろに首相公邸に行き2人でじっくり話し込んだ。村山は顔色も良く、気力も充実していた。「これなら2次(内閣)も3次もできますね」と言う…
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「至誠の人」村山富市(7)「55年体制の切り株」を取り除く
自民党、社会党、さきがけの3党が一致結束できたのはやはり、冷戦や55年体制の終結という大きな歴史的要因によるものだろう。加えて、河野洋平、村山富市、武村正義の3党首が強固に結束したからだとも思う。 …
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「至誠の人」村山富市(6)新らしい展望に立った龍宮殿会談
新党さきがけの代表、武村正義と村山首相は細川政権当時から互いに認め合う仲だった。 ■「さきがけ」に専念 その武村が村山内閣の蔵相になり、多忙な官房副長官をさきがけの代表幹事であった園田…
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「至誠の人」村山富市(5)度肝を抜いた社会党の大転換
1994年6月30日、自民党・社会党・新党さきがけによる3党連立の村山富市内閣が発足すると、当然のことながら、すさまじい政治日程が待っていた。 まず7月8日にイタリア・ナポリでの先進国首脳会…
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「至誠の人」村山富市(4)難題だった官房長官人事
「野坂浩賢官房長官」をつぶすのは難題であった。しかし引き受けてしまったから何とかしなければならない。それを決めなければ組閣が一歩も進まなくなる。 野坂は村山と同じ大正13(1924)年生まれ。…
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「至誠の人」村山富市(3)自社さ政権の成立
無事、首班指名(1994年6月29日)に勝ち、さきがけ代表の武村正義と私は、赤坂のさきがけ本部前のスナックで3党首会談が始まるのを待っていた。武村は春日八郎の「別れの一本杉」や三橋美智也の「哀愁列車…
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「至誠の人」村山富市(2)生まれながらに“推される人”
羽田孜首相は1994年6月25日、不信任案の採決を待たずに自ら総辞職を表明し、解散、総選挙による政局転換は消えた。そして、いよいよ次期首相の指名を巡って本格的な動きが始まった。 正直に言って…
