田中秀征 政界回想寸話
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李香蘭-時代が招いた3度の号泣(4)「今も私は裁かれている」…自民党ハト派の「要」として贖罪に努めた
私が李香蘭こと山口淑子の存在を知ったのは高校生の頃。長野市の3本立て映画館で、池部良と共演した「白夫人の妖恋」という映画を見たときであった。中国を舞台にした妖気が漂う恋物語で、不気味な感じだった。 …
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李香蘭-時代が招いた3度の号泣(3)大スターから一転、死刑求刑
反満抗日ゲリラによる襲撃事件と日本軍による平頂山事件を目の当たりにするという運命的体験から間もなく、一家は撫順から大都市「奉天」に移る。そこで山口淑子は、父と親しい李家の名目上の養女となり、「李香蘭…
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李香蘭-時代が招いた3度の号泣(2)「時代の子の運命」を背負う
李香蘭の伝記は、かつて時事通信社に勤め、速水優日銀総裁に請われて副総裁を務めた藤原作弥との共著となっている。李香蘭が真剣に頼んで実現したという。 編集の才覚はもちろんだが、彼自身が満蒙で育っ…
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李香蘭-時代が招いた3度の号泣(1)「昭和史」と並走した生涯
この4月末日、私は久しぶりに「ミュージカル李香蘭」を見る機会を得た。日頃、ミュージカルとは縁のない私だが、これだけは1991年の初演以来、特別招待を受けてすでに数回は劇場に足を運んでいる。 …
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石橋湛山と保守本流(4)岸信介との奇妙な連携で「小日本主義」は成功した
敗戦が避けられなくなった昭和19(1944)年、大蔵省内に設置された「経済特別調査室」で、東洋経済新報社社長だった石橋湛山は「四つの島になったら、やり方によってはそれはできる」と主張した。しかし、気…
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石橋湛山と保守本流(3)9条は「痛快極まりない」…憲法観は岸信介とは対局だった
昭和20年代(1945~54年)に新憲法制定に関与し、戦後日本の再建を主導した自由党系(保守本流)と、それを倒し、保守合同を主導した民主党系(自民党本流)の基本的な違いは、先の大戦についての歴史認識…
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石橋湛山と保守本流(2)岸信介はわずか2年で政界の実力者となり「自民党本流」をまとめた
「保守本流」とは通常、昭和20年代(1945~54年)に政権を担当した自由党の流れ、特に吉田茂の人脈に属する人たちを指していわれてきた。 そして、それに属さない保守政治家、例えば昭和20年代の…
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石橋湛山と保守本流(1)“国粋主義者”岸信介との対立
石橋湛山が晩年病床にあった時、足しげく見舞いに通っていた3人の政治家(石田博英、井出一太郎、宇都宮徳馬)から、私は湛山の病床での発言を聞いている。その多くは、岸信介への激しい批判の言葉だった。湛山が…
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なぜ今、石橋湛山なのか(4)超側近から聞かされた稚気溢れる人柄と「自分が適任」の自信
石橋湛山は、昭和48(1973)年4月25日に88歳で永眠した。私はその訃報に接してじだんだを踏むことになった。湛山に会う機会が与えられていたのに会うことができなかったからだ。 私は当時、師…
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なぜ今、石橋湛山なのか(3)大波乱の政治生涯…落選するも無議席で蔵相に抜擢される
石橋湛山は戦後初の衆議院総選挙(昭和21年4月)に自由党公認候補として東京の選挙区から出馬するも惨敗する。 彼が小日本主義を主張したり、昭和初期の金解禁論争で正論を掲げて戦った唯一の人だと知…
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なぜ今、石橋湛山なのか(2)言論人から政治家へ 「時務を識る」を体現した敗戦直後の演説
「タカの心臓を持ったハト」といわれた宇都宮徳馬元衆院議員は石橋湛山を守る用心棒のように見えた。彼は私が20代の頃から身近に教えを受けたひとりで、若かった私に「時務を識る者は俊傑に在り」と書いた色紙をく…
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なぜ今、石橋湛山なのか(1)石破首相が引用 ごく自然な「湛山ブーム」の広がり
石破首相は所信表明演説で、敬愛する石橋湛山元首相の演説の一節を引用した。 「国政の大本について、常時率直に意見をかわす慣行を作り、おのおのの立場を明らかにしつつ、力を合わせるべきことについては…
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ハマコーさんのこと(4)息子・靖一氏の初出馬に父親が「俺も出る」と言った真意を考えた
ハマコーさんの選挙区は、1993年の最後の中選挙区制の選挙で、息子の靖一氏が継ぐ形になった。以来、小選挙区(千葉12区)での総選挙を含め当選11回を重ね、すでに父のハマコーさんの7回の当選を超えてい…
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ハマコーさんのこと(3)説教ではなく応援「義理がなくてほめたのはアンタだけ」
あるとき、私は議員宿舎で寝ながら新聞を見ていて、驚いて飛び起きてしまった。4年後に私が国会に戻って来てからだ。 どでかい大きさの本の広告。それもハマコーさん著の「たまには誉めてやる」が目に飛…
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ハマコーさんのこと(2)「あの戦争は間違っていた」歴史認識を共有する同志の一人だった
私が初当選して2年後の昭和60(1985)年は、自民党が結成30周年を迎えた年であった(ちなみに今年、自民党は結成70年にあたる)。 このとき私は一念発起して当時の自民党の金丸信幹事長に自民…
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ハマコーさんのこと(1)出会いのきっかけはワイシャツの手首のボタン
“政界の暴れん坊”といわれたハマコーこと浜田幸一元代議士が亡くなって12年も経った。政界を引退して子息に代わってからは30年も過ぎている。それでも破天荒だがどこか魅力的な彼を覚えている人は多いだろう…