田中秀征 政界回想寸話
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失敗した省庁再編(4)軽視された「行革条項」
1990年代に入り、大蔵省の不行跡が次々と明らかになった。“金融不祥事”の醜悪さに世論は仰天した。特にバブル崩壊後明らかになった住専(住宅金融専門会社)社長への天下り(7社のうち6社)に至り、大蔵省…
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失敗した省庁再編(3)経済企画庁「廃止」の衝撃
「経済企画庁」がなくなってから、もう四半世紀が経つ。かつての業務は分散したが、多くは「内閣府」が引き継いだことになっている。 私は1991年、宮沢喜一内閣の成立に伴い「政務次官」として経企庁入…
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失敗した省庁再編(2)消えた激しい政策論争
2001年の省庁再編で統合された主な官庁は、①国土交通省(運輸、建設、国土庁他)②総務省(自治、郵政、総務庁)③厚生労働省(厚生、労働)④内閣府(総理府、経済企画庁、沖縄開発庁他)、そして専門筋から…
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失敗した省庁再編(1)「国民不在」は当然の帰結
■単なる器の改革 国の省庁が大きく改編されてから四半世紀が経った。しかし、今もって「どこの役所が何を担当しているのか分からない」という声は弱まっていない。特に、内閣府と総務省については担当する…
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「タカより強いハト」宇都宮徳馬(4)政治家は単騎でも出陣しなければならない
今年は宇都宮徳馬の生誕120周年にあたる。それもあってか、本紙も長孫・徳一郎のインタビュー「徳馬氏の人となり」を掲載した(5月8日付)。 ■徳馬の神髄 そこには「祖父は常に『政治家…
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「タカより強いハト」宇都宮徳間(3)韓国民主運動への支援
宇都宮徳馬は、父が朝鮮軍司令官であったせいか、戦後の朝鮮半島の動向に深い関心を抱いていた。とりわけ1961年の軍事クーデターによって長期政権を築いた朴正煕大統領への反感は強く、韓国の民主化運動を陰に…
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「タカより強いハト」宇都宮徳馬(2)時流との激闘
やはり20代の頃、宇都宮徳馬は私に真剣な顔で「君は学生時代に左翼だったのか」と聞いたことがある。私は「一度として社会主義者であったことはありません」と答えた。私がいわゆる「60年安保世代」だから確認…
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「タカより強いハト」宇都宮徳馬(1)政治家は「時務を識れ」
■「尊敬する人」と「座右の銘」 国政選挙に立つと新聞などからアンケート調査が殺到する。今はどうか知らないが、昔はこれを片付けることに手間取った。特に「尊敬する人」や「座右の銘」を書くことに…
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選挙制度の再改革(4)中選挙区連記制の利点
■細川政権案の狙い 1993年11月18日に衆議院を通過し、その後参議院で社会党などの反対で廃案となった細川政権提出の選挙制度案は「小選挙区・全国区比例代表並立制」といわれる。小選挙区で250…
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選挙制度の再改革(3)小選挙区制の欠陥
■現行制度に不信強まる 衆議院議員の現行選挙制度(小選挙区比例代表並立制)は、今年10月で実施30年になる。今後30年を展望すると、世界も日本も人や社会が未曽有の変貌を余儀なくされるに違いない…
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選挙制度の再改革(2)急成立した小選挙区制
■政治改革政権の提唱 1993年の総選挙は、自民党が昭和30(1955)年の結党以来、初めて政権の座を明け渡すという歴史的結果をもたらした。自民党と、小沢一郎が束ねた“非自民勢力”が互角の議席…
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選挙制度の再改革(1)空振りの石破発言
■大いなる反省点 自民党が裏金問題の渦中であがいていた時、石破茂がここぞとばかり核心を突いた発言をした。私の友人が送ってくれた「政治劣化の根源は選挙制度にあり!」と銘打つ石破のインタビュー記事…
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「国会のマドンナ」土井たか子(4)「借りを返して」と意外なお願い
1996年10月の総選挙では、鳩山由紀夫率いる民主党が躍動する。この新党には社会党(社民党)右派の大半が合流した。結果、土井社民党は30議席から15議席に激減することになった。だから羽田での慰労会で…
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「国会のマドンナ」土井たか子(3)村山富市に頼まれて口説いた「党首再登板」
「土井衆議院議長」は結局、1996年9月の衆院解散まで続いた。議長としての土井の存在感は圧倒的であった。 この時期、何かの折に私も言葉を交わす機会はあったが、じっくり話し込む機会はなかった。 …
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「国会のマドンナ」土井たか子(2)「おたかさんブーム」と初の女性衆議院議長誕生
■担がれた人 政治家には、自分から出てきた人と周りから担がれて出てきた人の2つのタイプがある。その典型は村山富市だが、土井たか子も担がれ、押し出された政治家だ。このタイプには野心や名誉欲で動か…
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「国会のマドンナ」土井たか子(1)選挙制度改革への後悔
■落選の慰労会 1996年9月27日、橋本龍太郎首相は衆議院を解散。翌10月20日、小選挙区制を導入して初めての総選挙で、私はまたもや苦杯を喫することになった。ただ、現職閣僚だったため、11月…
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私が見た田中角栄(8)遺言のような最後の演説
闇将軍が疑いを晴らして再び表舞台に立つことを心待ちにしていた人は数多い。しかし、天はそんな願いを聞き入れなかった。 角栄は昭和60(1985)年2月27日の夕方、突然、脳梗塞で倒れて入院して…
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私が見た田中角栄(7)政治手法を掲げたスローガン
■「大学出が考えろ」 田中角栄は日中国交回復を担当する外務大臣に宏池会会長の大平正芳を据えた。 大平は角栄より10歳ほど年上で一橋大、大蔵省を経て池田首相が政界に引き出した。 …
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私が見た田中角栄(6)電撃的な日中国交正常化
■池田首相のウラ安保 宏池会を創設(1957年)した池田勇人首相は、その派を継ぐ大平正芳と田中角栄にこう望んだという。 「自分たちの代はオモテ安保とも言うべき日米安保体制をつくったので、…
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私が見た田中角栄(5)石橋湛山からのバトン
■角栄を毛嫌いした岸 田中角栄と福田赳夫の権力抗争の裏には、後に判明する驚くべき裏話があった。 それは、ポスト佐藤(栄作)の総裁選には福田ではなく、師である岸信介自身が立候補して政権に…
