テレサ・テン没後30年 極秘取材メモを解く
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(32)イメージを一変させたチャリティーコンサートでのワンショット
テレサは日本、アジアだけでなく、世界の華僑圏でも歌手として認知されるようになっていく。台湾でデビューした14歳の1967年、香港に進出した18歳の1971年、日本で活動をはじめた20歳の1973年以…
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(31)激動の時代を経てテレサが語った中国への思い
1989年は世界史のなかでも特記に値する激動の一年だった。「戦争と革命の世紀」のエポックでもあった。冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊し、東欧の社会主義国家がドミノ倒しのように崩壊していった。アジア…
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(30)中国の戦車が来るかもしれないと怯えていた
鄧麗君(テレサ・テン)が日本でデビューして亡くなるまでの期間は21年だ。決して短い時間ではない。1995年に42歳で亡くなった彼女は存命なら今72歳になる。おそらく歌うこともなくフランスあたりで暮ら…
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(29)本の脱稿後に中国共産党の機密文書を入手
テレサ・テンがタイのチェンマイのホテルで呼吸困難に陥り、搬送された病院で42歳の若さで亡くなってから30年がたつ。没後30年の節目に彼女の人生を再検証できないか。日刊ゲンダイの担当者の依頼を喜んで引…
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(28)ギャラは月25万円、大卒初任給の5倍弱だった
テレサが母の趙素桂と初めて日本に来たのは1973年11月、20歳になっていた。テレサたちを羽田空港に迎えたなかに渡辺プロの桜井五郎がいた。いしだあゆみ、大信田礼子、アン・ルイスらを統括するマネジャー…
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(27)頑なな父親を説得、ついに日本デビューが決まる
1973年に日本ではまったく知られていなかった鄧麗君(テレサ・テン)。接触を試みた日本ポリドールの制作管理部長の舟木稔は、香港で有名な歌手だと知っていささか緊張した。まずは歌庁(ライブハウス)で歌う…
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(26)テレサの歌を聴いたポリドールの佐々木は興奮で眠れなかった
1973年3月、日本ポリドールの佐々木幸男ディレクターと中村準良制作課長は、香港ポリドールのノーマン・チャン制作部長とともに再び歌庁に出向いた。酒を飲んでいたので後方席に座らされた前夜と違い、こんど…
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(25)日本ポリドールの2人を魅了したライブハウスでのテレサ
1973年3月。鄧麗君(テレサ・テン)は20歳になっていた。香港でデビューし、テレビや歌庁(ライブハウス)の出演で忙しい日々が続いていた。香港に3泊4日でやってきた日本ポリドールの佐々木幸男は沢田研…
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(24)家を建て、弟にはスケート靴を、父親にはアメリカ車をプレゼント
連載の担当者から鄧麗君(テレサ・テン)一家の台湾での暮らしぶりを聞かれたとき、「日本の父」と呼ばれていた舟木稔さんに意見を聞いた。 「暮らしが豊かになったのは香港に出稼ぎに行ってからですよ」 …
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(23)歌のうまい少女が大スターの道を歩み始めた
1970年になった。鄧麗君(テレサ・テン)は17歳。日本では大阪万博が開かれた。が、アジアに鄧麗君という歌手がいることはまだ知られていなかった。「世界最高の女性歌手」とのちに絶賛した音楽評論家の中村…
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(22)念願のレコードデビュー、ライブハウスでは妬まれるほどの人気
いまから58年前の1967年9月、麗筠(リーイユン。のちのテレサ・テン)は14歳になった。テレビへのレギュラー出演の影響もあって、歌丁(ライブハウス)での人気は高まっていた。宇宙レコードから「鳳陽花…
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(21)中学を退学し歌手に専念、道が開ける
テレサ・テンの母の証言を聞いて、歌手への道のりは順調だったようにも思った。 「13歳になったとき、台湾電視台(台湾テレビ局)の専属になり、週に1回放送されていた30分の歌番組『群星会』にときど…
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(20)小学生のころから軍の慰問へ、その後コンテストで優勝
前号からテレサの母親、趙素桂の証言によって、彼女の軌跡をたどっていくことにした。原稿を担当者に送ったところ、「生活ぶりは貧困だったのか、そうではなかったのか」と質問が寄せられた。テレサの「日本の父」…
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(19)母親が語った生い立ちとテレサの思い出
テレサ・テンの母親・趙素桂の肉声を紹介する前に、年表風に彼女の生い立ちをたどっておく。一族は中国の山東省東平県の出身だが、彼女は黒竜江省ハルビンで生まれた。民国15年、西暦でいえば1926年6月20…
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(18)テレサの母親に8時間を超えるインタビューで聞いたこと
テレサ・テン没後30年に当たってこの連載をしているのは、昨年末のマスコミ関係者の忘年会で「日刊ゲンダイ」の担当者とテレサの話をしたのがきっかけだった。私が13年間をかけて取材して書いた「私の家は山の…
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(17)破談したテレサの心情と残された幻の詩
テレサ・テンが「シャングリ・ラ・ホテル」の御曹司と婚約し、結婚披露宴の会場や日程(1982年)まで決まっていたのに破談したことは、29歳の心に深い傷を刻んだに違いない。しかも原因が「歌手をやめろ」と…
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(16)結婚にあたってテレサに突きつけられた3つの要求
テレサ・テンが婚約したことは、日本はもちろん、台湾、香港、まして中国大陸ではまったく知られていなかった。相手は「シャングリ・ラ・ホテル」などを経営する財閥の御曹司、ボー・クオックだ。パリでテレサが行…
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(15)うれしそうに友人に語った財閥の御曹司との婚約
私がテレサ・テンの親友だった女優の張玉玲に話を聞いたのは、1996年4月29日だった。本人がテレサと雰囲気が似ていたと語ったように、話しぶりも表情もとても穏やかだった。最後に出会ったときのこと、中国…
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(14)テレサが自作の詩に込めた「愛の苦海」という心情
テレサ・テンは中国の漢詩を学び、自分でも書きたいと詩を習作してきた。没後に公開された作品の冒頭と最終節を日本語訳で紹介する。前号で紹介したパリのアパルトマンに残されていた「冬夜裡吹來一陣春風」(冬の…
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(13)行きつけの中華料理店で聞いた謎の人物
テレサ・テンが住んでいた香港とパリの住居に入り、日常生活の雰囲気に触れることができた。長い時間、その空間で暮らしてきたパリのアパルトマンの机上には、多くの郵便物といっしょに彼女の直筆の詩が置いてあっ…