テレサ・テン没後30年 極秘取材メモを解く
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(56)台湾では「愛国芸人」、大陸では「精神汚染」
新宿西口に「思い出横丁」という小道がある。戦後闇市の雰囲気がいまでも残っている文化遺産でもある。かつて「しょんべん横丁」と呼ばれていたのは、トイレがなかったため、男性客が道端で放尿したからだ。いまは…
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(55)一卵性双生児のような母親が語ったテレサの貴重な思い出
テレサ・テンに時間をかけてインタビューしたのは一度だけだ。天安門事件とパリでの暮らしぶりを聞いた肉声はミニCDに収録し、文芸春秋から出した拙著「私の家は山の向こう テレサ・テン十年目の真実」(200…
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(54)中国から亡命した軍人が「テレサに会いたかった」
テレサ・テンが台湾に戻って「愛国芸人」と呼ばれるほど軍隊に協力したことには理由があった。父の鄧枢がかつて軍人で、国民党軍として大陸から追われてきたひとりであったこと、兄も軍人になっていたこと、家族へ…
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(53)台湾に戻る条件は2つだった。テレサは愛国芸人になっていく
テレサ・テンの母親、趙素桂とは台北で3度にわたり、長い時間、お話を伺った。1995年5月8日にテレサが42歳で亡くなったとき、彼女は68歳だった。小柄で穏やかで、品格がある女性だった印象が残っている…
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(52)台湾からは執拗な帰国工作が繰り広げられた
1979年2月、本人にとっても思いがけず起きた「パスポート事件」。台湾当局はその後、テレサ・テンに戻るよう執拗に働きかけていた。アメリカが中国と国交を樹立、台湾と断交したのが1月。台湾は国際的に孤立…
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(51)テレサ・テンは中国の夜を支配していた
「パスポート事件」をきっかけにアメリカでの暮らしをはじめたテレサ・テン。1980年にはロサンゼルスのマンションを拠点に勉学だけでなく、スポーツやレコーディングなど、自由な時間を楽しみ、満喫していた。そ…
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(50)米国で傷心の日々の頃、中国では大きな変化が起きていた
1979年に日本で起きた「パスポート事件」。台湾に戻ればどんな事態が待ち受けているか予想もつかなかった。音楽関係者から最悪の場合には歌手をやめなければならないとまで言われた。当時の台湾が国際的に孤立…
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(49)パスポートはインドネシア政府が発行した本物だった
「パスポート事件」をきっかけに、テレサ・テンは台湾と中国の政争に期せずして巻き込まれていく。とはいえ、アメリカに向かった“24歳”の彼女には、そうした国の事情や政治的思惑など知るよしもなかった。彼女は…
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(48)戒厳令下の台湾からはテレサを強制送還せよ、との圧力が
テレサ・テンが入った東京入国管理局の女子収容所は、畳部屋で20人ほどがいっしょに暮らしていた。中国人が多かったので話し相手はいた。そのため気落ちすることは少なかった。テレサの取り調べは入国警備課と審…
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(47)台湾での入国拒否を横で見ていたのは中国時報の記者だった
テレサ・テンがインドネシアのパスポートを使用していたことはなぜ発覚したのか。1979年2月13日、香港から台湾に到着したとき、入管ではビザがないからと入国を拒否された。そのトラブルを目撃している人物…
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(46)インドネシアのパスポートで入国、入管に連行
1979年2月14日水曜日。香港から台湾に戻ったテレサ・テンは、入管で止められて入国できなかった。バッグから出したパスポートがインドネシア政府発行のもので、ビザがなかったからだ。慌てたテレサは台湾か…
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(45)突然、ホテルから入管に連行された衝撃
1979年2月17日。土曜日なので自宅にいた日本ポリドールの編成部長、舟木稔の電話が鳴ったのは午後8時ごろだった。相手はテレサ・テンの母親の通訳をしている佐井芳男。いつもは明るく穏やかな佐井の声が切…
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(44)月25万円のギャラは瞬く間に10倍に
デビュー曲「今夜かしら明日かしら」がヒットしなかった落胆。2曲目の「空港」が売れてレコード大賞新人賞を獲得した喜び。それでもテレサ・テンの胸中では複雑な思いが渦巻いていた。日本の芸能界で慣例になって…
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(43)没後30年、テレビ朝日のテレサ番組に抱いた違和感
1974年に日本でデビューしたテレサ・テン。「今夜かしら明日かしら」は売れなかったが、2曲目の「空港」がヒットして、歌謡界で大きな地歩を築きはじめた。しかし日本の芸能界の慣習に強い違和感を覚えていた…
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(42)ビキニの水着を渡されて「嫌です」と突き返す
テレサ・テンのデビュー曲「今夜かしら明日かしら」は売れなかった。せっかく香港からスカウトし、期待していただけに、ポリドールも、渡辺プロも納得できないどころか、焦りを覚えていた。誰よりもテレサ本人がそ…
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(41)1曲目が売れず2曲目は「演歌」と「ポップス」の融合に
日本で仕事をはじめたテレサは、香港の歌庁(ライブハウス)で彼女を見いだしたポリドールの佐々木幸男たちに誘われ、有楽町のガード下など安い飲食店に連れて行かれた。ある焼き肉屋で豚足を食べたときは「おいし…
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(40)なぜ、テレサの日本デビュー曲は売れなかったのか
1974年に21歳で日本デビューしたテレサ・テンだが、落ち込んでいた。最初の作品「今夜かしら明日かしら」がヒットしなかったからだ。台湾や香港での活躍を否定されたかのように感じていた。 当時の…
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(39)台湾出身なのに「香港の赤いバラ」で売り出す
私が通う酒場にこの連載を愛読してくれる常連が何人かいる。あるときこんな感想を聞いた。 「日本でデビューしてからのことを書いてよ。懐かしい曲ばっかりなんだからさー。歌がうまかったよね」 …
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(38)木村佳乃さんが本物のテレサに見えた
1989年5月27日、香港のハッピーバレー競馬場で行われた中国の民主化支援の集会に参加したことでテレサ・テンの人生は大きく変わっていく。 テレサ36歳。天安門事件まで、あと8日だ。集会で初め…
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(37)泣きながら逡巡、テレビで大観衆を見て決意
1989年5月27日。香港は平均気温が23.9度。湿度90%。蒸し暑い一日となった。ハッピーバレー競馬場では中国の民主化支援コンサートが朝10時からはじまった。2階のベッドで目覚めたテレサ・テンはダ…
