立花理佐
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(16)コロナ禍に判明した直腸がん 尻の鈍痛と術後の苦しみ
車内に重い空気が流れていた。ハンドルを握る夫が「どうだった?」と沈黙を破ると、助手席の理佐は「がんだった」と答えた。明るく振る舞ったつもりだったが、気付くと目から涙があふれていた──。コロナ禍の2020年5月、尻に痛みを感じていた彼...
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(15)島田紳助が率いる"男女混合"沖縄グループ旅行
バラエティーでも活躍する立花理佐は1991年秋、「オールスター感謝祭」の前身となる「クイズ!当たって25%」(TBS系)にレギュラー出演する。この頃から、島田紳助と親交を持つようになる。 「いつだったか、『この番組に出たい、出...
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(14)松山千春に猛特訓を受けた「風の詩」とヤクザ風ファッション
バブル景気の頃、理佐は木梨憲武やヒロミ、藤井郁弥、ブラザー・コーンらと六本木や芝浦のクラブで一緒に遊んでいた。 「ノリさんが『理佐を盛り上げる会』を作ろうと言ってくれたんですよ。『俺は副会長。会長はヒロミ』と決めていましたね。...
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(13)「タチバナァ…」若山富三郎の恐怖のスパルタ演技指導
中村玉緒ら大御所を抱える廣済堂プロダクションへの移籍は大きなプラスになった。 「玉緒さんがすごく親身になってくれました。仕事の相談をすると、『この役はマイナスになる』とか『嫌だと思っても、受けた方がいい』とか先々を見据えて、ア...
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(12)「オレを隊長と呼べ」火野正平に時給700円で雇われた“付き人”の仕事
母と事務所の確執で、休業を余儀なくされた1989年、テレビ界に地殻変動が起こり始めていた。音楽番組の視聴率が全体的に低下し、秋に「ザ・ベストテン」が終了。復帰すると、アイドル歌手を取り巻く状況は大きく変わっていた。 「1年弱の...
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(11)「研音」への移籍が母の反対でまさかの白紙に…謎の紳士との詐欺話
引退騒動が落ち着いた1989年春、中森明菜の所属事務所である研音がスカウトにやって来た。 「『明菜さんと同じ会社に入れる!』と思って、めちゃくちゃうれしかった。研音は『ロッテの仕事はもうしない』という方針でした。親は『最初に見...
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(10)安西マリアと事務所社長の離婚で決定的になった“独立劇”
所属事務所と親が揉めて、芸能活動がストップする──。昭和から平成にかけて、時折起こるトラブルに立花理佐は巻き込まれていた。昭和天皇の病状が悪化していた1988年の大晦日、事務所のマネジャーに東京駅に連れて行かれ、大阪に帰省した。同じ...
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(9)憧れの中森明菜が「リサの妖精伝説」を口ずさみながらスキップして現れた!
立花理佐にとって、中森明菜は憧れの人だった。 「中学の時、同じ髪形にしていました。レコードは全部買っていたし、自分の部屋でいつも『少女A』や『1/2の神話』などを歌っていた。初めてビブラートをできたのも、『北ウイング』なんです...
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(8)「下手くそだったのよ!」筒美京平がレコーディング時に放った衝撃の一言
「タチバナリサ」を逆から読むと、「サリナバチタ」。そんな呪文のような歌詞を作って、ファミコンと新曲を連動させよう──。デビュー2年目の1988年、時代の潮流を取り入れるメディアミックスが仕掛けられた。6枚目のシングル「リサの妖精伝説」...
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(7)とんねるず石橋貴明の"一言"がトドメに 睡眠不足と過労で声が裏返って大号泣
デビュー1年目の1987年、立花理佐はまだ無名の石塚英彦をバックダンサーに従えた「キミはどんとくらい」で、酒井法子らを抑えて「日本レコード大賞」の最優秀新人賞を受賞する。バラエティーでも適応力の高い彼女は東京だけでなく、地元・大阪の...
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(6)憧れの河合奈保子と対面、志村けんとの"おでこつねり合い"の思い出
1年前、窓ガラスの割れた中学校に通っていたとは思えないほど理佐の夢はかなっていく。1987年9月2日には「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)に初登場。憧れの河合奈保子と対面し、ひな壇の前で「ヤング・ボーイ」を一緒に歌った。 ...
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(5)中山美穂が"脱ぎっぱなし"の下着を畳んでくれた! 音楽番組で共演した"大物"との記憶
国鉄が分割民営化されてJRになった1987年4月1日、立花理佐は歌手デビューを果たす。曲はレコーディングを終えていた「オリオン座のむこう」(作詞:呉田軽穂、作曲:松任谷正隆)ではなく、ドラマの役柄のイメージを考慮して「疑問」に変更さ...
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(4)「毎度おさわがせしますⅢ」の撮影には"下着5枚重ね"で臨んだ
思春期の性の悩みを描く「毎度おさわがせします」シリーズは、デビュー直後の中山美穂が下着姿になるなど、過激なシーンを売りにしていた。1987年1月に始まる「毎度おさわがせしますⅢ」の打ち合わせが終わったTBSからの帰り道、東芝EMIの...
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(3)後藤久美子の代役で「毎度おさわがせします」抜擢のチャンス
渡辺美奈代や新田恵利などおニャン子クラブのメンバーが歌謡界を席巻していた1986年8月、「ロッテCMアイドルはキミだ!」コンテストが開催された。理佐は本選出場のため、大阪から東京・新宿のスタジオアルタに赴く。すると、驚きの光景を目の...
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(2)「ビー・バップ・ハイスクール」顔負けの荒れた学校で、スケバンの推しで"彼氏"と交際
校内暴力が社会問題になっていた1984年、理佐は大阪の公立中学に入学する。数日後、何げなく廊下を歩いていると、トイレから竹刀を持った長髪の女子が現れた。おじけづきながら横目で顔をのぞくと、幼い頃の記憶が蘇った。 「2つ上の幼馴...
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(1)“シンクロの鬼”井村雅代コーチのスパルタ特訓でド根性を徹底的に鍛えられた
窓ガラスの割れた校舎で女番長10人に囲まれた中学時代、ロッテのコンテストを機に芸能界デビュー、憧れの中森明菜がスキップしながら駆け寄ってきた瞬間、中山美穂の優しさに触れた楽屋、志村けんに見いだされた契機、松山千春の厳しい歌唱指導、事...