(1)“シンクロの鬼”井村雅代コーチのスパルタ特訓でド根性を徹底的に鍛えられた
窓ガラスの割れた校舎で女番長10人に囲まれた中学時代、ロッテのコンテストを機に芸能界デビュー、憧れの中森明菜がスキップしながら駆け寄ってきた瞬間、中山美穂の優しさに触れた楽屋、志村けんに見いだされた契機、松山千春の厳しい歌唱指導、事務所独立と引退騒動の真相、直腸がんと闘病生活、そして寛解……芸能生活38年を迎える立花理佐が激動の半生を語る。
沖縄返還協定が調印された1971(昭和46)年、大阪市西成区で誕生した橘理佐は過酷な環境で育てられた。
「母が日本舞踊の先生だったので、3歳から半ば強制的に習いました。教室では他の子が悪いことをしても、私が見せしめのように怒られる。母が世界で一番怖かったです。だから、学校ではよくしゃべるんですけど、家や親戚の集まりでは全然話さない子供でした」
■「それでも、お母さん方は入学させたいですか?」
同じ頃から水泳も習っていた理佐は小4の夏、のちに五輪メダリストを輩出する浜寺水練学校に入学する。説明会に参加すると、“シンクロの鬼”と呼ばれる井村雅代コーチが毅然とした口調で言い放った。
「1日に7000メートルから1万メートル泳ぎます。練習は厳しいです。それでも、お母さん方は入学させたいですか?」
井村は親に覚悟を求めた。理佐はどう感じたのか。
「その時、シンクロの演技を初めて生で見たんですね。とてもきれいで『こんなふうにできたらすごいな』と思いました。井村コーチは厳しそうだったけど、競技に対する憧れが強くなりました。練習は週5日あるけど、頑張ろうかなって」