五木寛之 流されゆく日々
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連載9889回 伝説と物語の値うち <3>
(昨日のつづき) 私たちがモノの対価として支払う金銭は、必ずしも品質に対してだけではない。 むかし雑誌でフランソワーズ・サガンと対談をしたことがあった。対談とは名ばかりで、有能なフランス語の通…
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連載9888回 伝説と物語の値うち <2>
(昨日のつづき) 先日、金沢へいってきた。東京─金沢、2時間半という新幹線は、なるほど便利だ。 これでは日帰りも不可能ではないだろう。ただし、金沢で一泊というのを楽しみにしている風流人には、残…
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連載9887回 伝説と物語の値うち <1>
若い世代が、あまり車を欲しがらないという。ひと昔まえは、湘南海岸をオープンカーで走りながらボサノヴァの音楽をかけるとか、そういうのが恰好よかった時代もあった。 車が必要ならシェアリングすれば…
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連載9886回 自分自身のための広告─『はじめての親鸞』─ <5>
(昨日のつづき) きょうは取材インターヴューが重なって、思いきり時間オーバーしてしまった。最初に予定していた時間が2倍、3倍に超過してしまうのは、毎度のことである。 最初は、雑誌のための親鸞に…
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連載9885回 自分自身のための広告─『はじめての親鸞』─ <4>
(昨日のつづき) 親鸞について、かねてから考えてみたかった点がいくつかある。 一つは、「朝家のおんため」に念仏するのもよかろう、という発言である。この言葉をめぐっては、さまざまな意見が交錯して…
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連載9884回 自分自身のための広告─『はじめての親鸞』─ <3>
(昨日のつづき) 今回の新書は、あくまでもタイトル通りの「はじめての親鸞」である。そもそも、親鸞を論ずるということ自体が、無理な仕事のような気がするのだ。 歴史というものが、作られるものである…
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連載9883回 自分自身のための広告─『はじめての親鸞』─ <2>
(昨日のつづき) こんど出た『はじめての親鸞』は、新書で180ページあまりのコンパクトな本です。 「やさしく、深く、面白い」 というオビの文句に、著者としてはいささか照れるところなきにしもあ…
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連載9882回 自分自身のための広告─『はじめての親鸞』─ <1>
今週、新潮新書で、『はじめての親鸞』という本が出る。 これは昨年、新潮社で行った「新潮講座・親鸞をめぐる雑話・全三回」の話をまとめたものだ。新潮講座は佐藤優さんの『資本論講義』など、かなりレベル…
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連載9881回 金は天下の回りものか <5>
(昨日のつづき) 最近の雑誌を見ていると、経済の予想に関する記事がべらぼうに多い。マイナス金利で庶民の生活はこうなる、老後破産にどうそなえるか、などなど。 しかし、不思議なことに、世の中の先行…
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連載9880回 金は天下の回りものか <4>
(昨日のつづき) 「金に怨みは数々ござる」 とは、古い芝居の中でよく聞いたセリフだった。金のために身を売る娘たちが、つい先ごろまでこの国にいたのである。いまでも金にからむ犯罪は多い。しかし疑獄事…
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連載9879回 金は天下の回りものか <3>
(昨日のつづき) 「バブルの時代を体験したイツキさんたちの世代がうらやましいです」 などという言葉を聞くことがしばしばある。 「さぞかし華やかだったんでしょうね」 と、うっとり夢見るような…
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連載9878回 金は天下の回りものか <2>
(昨日のつづき) 景気がよくなれば大企業がもうかる。大企業がもうかれば株主や役員はもうかる。しかし株を沢山持っているのは、国民の数パーセントぐらいの富裕層だ。その富裕層がうるおえば、おのずとしたた…
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連載9877回 金は天下の回りものか <1>
昔、よく耳にしたことわざに、 〈金は天下の回りもの〉 というのがあった。かつて日銭かせぎの労働者などが、その日の賃金をぜんぶ呑んでしまう。仲間が気づかって、 「おい、おめえ、そんなに金を使っ…
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連載9876回 記憶のフィルムを廻して <5>
(昨日のつづき) 電子書籍が大話題になったのは、何年ぐらい前のことだろうか。 これで活字文化は終るとか、いずれ出版社や本屋さんがなくなるとか、大騒ぎだった。あたかも黒船襲来の時のような騒がれか…
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連載9875回 記憶のフィルムを廻して <4>
(昨日のつづき) 何度も書くので気が引けるが、短期記憶が曖昧なのに長期記憶が鮮明なのは、どういうわけだろう。 きのうの事が、なかなか思い出せないかわりに、50年前の記憶が鮮やかによみがえってく…
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連載9874回 記憶のフィルムを廻して <3>
(昨日のつづき) 昨日は午後、朝日新聞社の催しで講演をやり、終了後に講談社の吉川英治文学賞の選考会に出た。選考終了後に、北方謙三さんから日本刀の話をきいた。途中から話にくわわられた平岩弓枝さんが、…
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連載9873回 記憶のフィルムを廻して<2>
(昨日のつづき) 小学生の頃に愛読したマンガは、『のらくろ』と、『冒険ダン吉』である。正確なタイトルは憶えていないけれども、両方とも仲間の誰もが夢中になっていた。 ほかに佐々木邦のユーモア小説…
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連載9872回 記憶のフィルムを廻して <1>
小学生のころ、(といっても途中で国民学校と名前が変るのだが)、武侠小説と呼ばれるジャンルの少年読物を愛読していた。 その代表的な作家が、山中峯太郎である。80歳以上のかたがたには、懐しい名前では…
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連載9871回 人は死後どこへいくか <5>
(昨日のつづき) 死という問題を真剣に考えるようになるのは、人生の後半、それも野球でいうなら八回、九回のあたりだろう。 自分自身が試合のクローザーにならなければならないのである。こればかりは他…
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連載9870回 人は死後どこへ行くのか <4>
(昨日のつづき) 私はこれまでに何度か死を意識したことがある。 中学1年のころ、少年兵に志願しようかと考えた。少年戦車兵とか、予科練とか、いろいろあった。幼年学校へは、中学1年生からでも行けた…