昭和スター千一夜物語
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ジョン・レノン(8)善意で招かれた取材なのに…デスクから「大麻のことを質問しろ」と注文
ジョン・レノン夫妻が“お忍び”で来日したのは1977年10月ごろで、この年は「芸能界大麻汚染」の取材に追われた年だった。レノン夫妻の来日は週刊誌や女性週刊誌などが奈良、京都、軽井沢……と2人を執拗に…
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ジョン・レノン(7)「ツーショットを1枚撮らせて」と食い下がるとOKが…2人に深く礼を述べ、退散した
ジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻は羽田空港から無線タクシーに乗ったので、追跡を開始した。ジョンたちの車は首都高にいったん入ったが、すぐに途中で降りた。尾行に気が付いたのだ。国道1号の品川あたりで突然…
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ジョン・レノン(6)「イギリスの宝を東洋の魔女に取られた」とオノ・ヨーコは非難された
ザ・ビートルズは1970年に解散するが、最大の理由はジョンが反戦活動家のオノ・ヨーコと出会って「のぼせた」ためだといわれている。リーダーのジョンは66年にヨーコにひと目ぼれすると前妻と離婚、69年3…
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ジョン・レノン(5)ジョンを意識した出で立ちで沢田研二を取材すると「どっちが芸能人?」と
ザ・ビートルズのファッションは解散(70年)後も生き続けた。影響を受けた私の服装の記憶をたどってみると、まずはパリで沢田研二との話。74年秋、私は「シャンソン音楽コンクール」関係の取材でロンドン-マ…
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ジョン・レノン(4)6歳年上の先輩も3つ下の後輩も…みんながビートルズにかぶれていた
「ザ・ビートルズ来日初公演」は1966年6月30日から計5回、日本武道館で開催され、これより日本武道館は「武道の殿堂」から「歌手の聖堂」色が濃くなった。 ビートルズが「エレキとボーカル」で世界…
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ジョン・レノン(3)自分と同世代のロックの演奏家が思春期の少女たちを失神させる光景に唖然とした
「ザ・ビートルズ来日初公演」は1966年6月30日夜、日本武道館で開かれた。7500人(警備上アリーナ席なし)の観客をのみ込んだ会場は中・高校生たちの「キャー!」と泣き叫ぶ少女たちの絶叫と、声変わり前…
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ジョン・レノン(2)長髪4人組の来日は経済、教育、思想問題まで巻き込んだ
「ザ・ビートルズ初来日」プロジェクトは招聘元のキョードー東京と主催の読売新聞と中部日本放送の3社。ビートルズ側の条件は1ステージにつき10万ドル(3600万円)=1ドル360円=を5回、つまり1億80…
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ジョン・レノン(1)丸メガネを鷲鼻からずらしたまま、上目遣いで話す澄んだ“瞳”が懐かしい
ザ・ビートルズのリーダー、ジョン・レノン(享年40)が逝って44年になっても「ジョンと1年半同棲した」という元女性秘書が現れ、ジョンとの同棲生活を綴った映画「ジョン・レノン 失われた週末」を発表。ジ…
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力道山(5)「医者から断食を命じられたのにガマンができなかった。死因は力さんの“短気”だったと思う」
1963年5月24日、東京体育館で行われた力道山対ザ・デストロイヤーの無制限一本勝負「WWA世界ヘビー級選手権」は壮絶な戦いだった。日本テレビの平均視聴率はなんと64.0%(関東地区)を記録。今日に…
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力道山(4)「1964年には東京五輪がある。頑張って代表になれば、東京でまた会える」
“リキ番記者”の松明邦彦夫人が「がんで余命3年」と知った力道山は、自分が懇意にしている病院の医師を紹介した。夫人は最高ランクの治療を受け、そのかいあって奇跡的に回復。夫人の寿命は10年も延びたのである…
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力道山(3)ジャイアント馬場が告白した想像を絶する「しごき」の中身
木村政彦を倒して名実ともにプロレス界の王者となった力道山だが、翌年の1955年、人気は急降下した。さまざまな外国人を招聘し、力道山は技に工夫を加えて熱戦を繰り広げたが第1次プロレスブームは去った。5…
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力道山(2)神戸新開地の電気店のテレビで観た伝説の「昭和の巌流島」
力道山を初めて知ったのは1954年ごろ、私は11歳だった。相撲界からプロレスラーに転じた力道山は当時、柔道家出身の木村政彦とタッグを組んでシャープ兄弟と全国各地で戦っていた。日本テレビとNHKが相次…
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力道山(1)“リキ番記者”運転手だった私が見た炎のような激しさと優しさ
今年は戦後最大のスター、力道山(享年39)の生誕100年である。11月9日に都内のホテルで開催された「祝う会」には王貞治、張本勲、徳光和夫ら各界の著名人が集まり故人を偲んだ。日本にプロレスを輸入して…
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梨元勝(2)昨日のように思い出される、利島で飲んだウイスキーの「雨水割り」
TBS系「モーニングジャンボ」ではスポーツ紙出身の鬼沢慶一さんが「大原みどり事件(歌手から大金を詐取)」で名を馳せ、前田忠明さんはフジの専属芸能リポーターとして40年間も活躍。そして福岡翼さん、須藤…
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梨元勝(1)「ボクの取材と同じで、良い物は“足”で買うのです」
梨元勝、梨ちゃんが1976年にテレビ朝日系「アフタヌーンショー」に登場したころから番組で「芸能ニュース」を伝えるリポーターたちが“主婦の花形”として脚光を浴びる時代に入った。代表格の梨ちゃんの場合、…
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樹木希林(3)「名前なんて番号と同じ。悠木千帆に特に未練はない」
希林さんの元の芸名は悠木千帆だったが、1977年4月1日(NETからテレビ朝日に社名変更日)をもって改名している。この動機も“怪優”らしくとっぴだった。当日の特別生番組で「芸能人もオークションに参加…
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樹木希林(2)「裕也と住むとケンカが絶えない。相手がビール瓶を投げたら、私ははさみや受話器を投げ返す…」
TBS系「寺内貫太郎一家」で老け役を好演した樹木希林さんは1975年10月からの「ばあちゃんの星」で初めて主役を獲得。森繁久弥さんの人気ドラマ「七人の孫」の“女性版”を狙った服部晴治氏(大竹しのぶの…
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樹木希林(1)義理堅い「ジュリー婆さん」の返礼は「ミキプルーン」1ダース
今年が七回忌の“怪優”樹木希林さん(享年75)とは同い年で、まだ女優名「悠木千帆」を名乗っていた頃に出会った。1970年の人気ドラマ、TBS系「時間ですよ」で人気を得た希林さんは続く久世光彦作品「寺…
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坂上二郎(5)「死に損なって無理が利かなくなったボクに健康法は嫌みでしょ?」
坂上二郎さんは大病するまで練馬区の一軒家(3階建て)に夫人と住んでいた。「僕が一番きつい階段の掃除係、おかげで足腰が鍛えられた」と恐妻家だったことを認めている。一人で散歩し、なじみのスナックに寄ると…
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坂上二郎(4)「目線はいつも下にあるほうが好きなんだ」
1974年7月の能登はうだるような暑さだった。10月からスタートのTBS系「夜明けの刑事」で初の主演の座を勝ち取った坂上二郎さんは「食いついたら死んでも離さない」スッポン(鈴木)刑事に扮していた。 …