小5の終わりまで「ライパチくん」 最終学年で4番も、中学に上がって“暗黒時代”に突入した
ランボルギーニ、ベンツ、フェラーリ……。これまで何十台と車を乗り継いできたが、プロ入りした18歳にトヨタのソアラを買ったときの喜びは格別だった。
それまでは姉が父親から買ってもらったカローラが自宅にあり、兄貴と乗り回していた。初めて「自分で車を所有する」というのがうれしくてたまらなかったのだ。
中日に2位指名で入団した1987年、契約金5400万円を手にすると、すぐに母親にこうお願いした。
「車だけは買わせてほしい。残りは全部あげるから」
当時、2ドアで一番イケていたソアラ。7歳年上で車好きだった兄と2人で「買うならソアラだよな」と話していた憧れの国産車だった。
場所にもよるが、車で行ける所であれば、野球教室やサイン会に行くときは必ずお気に入りの一台に乗って行く。
「うわー、ドアが上に開く車から出てきたよ」
子供たちはスーパーカーから出てきた俺の姿を一生忘れないと思う。
頑張ればこんなにカッコイイ車に乗れるんだということを示したい。子供たちに夢を与えたいという思いから続けている。
野球を始めたのは小学校2年生のとき。長崎県出身で大の巨人ファンだった父親の影響だった。名古屋で中日ファンじゃないどころか、巨人ファンなんて、当時はかなり珍しかった。でも、俺も「他の人と同じは嫌」という性格と当時の巨人の強さから、気付けば大の巨人ファンになっていた。
親父が会社からナゴヤ球場のシーズンチケットをもらってくると、2人で観戦に行った。他のカードもあったが、「巨人戦以外は嫌」とワガママを言っていた記憶がある。
そんな父親から「何かスポーツでもやったら?」と言われたが、当時の選択肢は野球くらいしかなかった。家の近所にあった東海市の少年野球チームに入ってみるも、外野でひたすら球拾いするだけ。とにかく面白くなかった。
親父は新日本製鉄の名古屋製鉄所に勤めていて、時々夜勤で自宅に帰らない日があった。そんなときは練習場にも行かずサボっていた。親父がいる日だけ練習に行っていた。きっと親父も知っていたんだろうが、特に怒ることもなく、母親も無理やり連れて行くようなことはしなかった。
小2の途中で知多市に自宅を購入したのをきっかけに転校。野球チームも「にしの台少年野球教室」に移籍した。ここでも試合は全然出番なし。
今のように低学年と高学年で分かれていなかったし、選手全員をまんべんなく出してあげよう、なんて配慮もなかった。
少しずつ練習試合に出してもらえるようになっても、いわゆる「ライパチくん」。5年生の終わりまでは控えで、代が替わって捕手に転向すると、ようやく4番に座ることができた。
ところが、
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