山﨑武司 これが俺の生きる道
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星野監督&張本勲さんからの助言に共通した「もっと自分を疑え」。だから俺は調子が良いときでも…
1996年5月1日、巨人のガルベスとの大立ち回りをして一躍話題になったものの、なかなかレギュラーに定着できなかった。 左打ちの愛甲猛さん(95年オフにロッテから無償トレードで移籍)との併用が…
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星野監督時代は「陣形」が存在、いまでは考えられない乱闘の内幕
ここ最近、乱闘はめったに見られなくなった。WBCなどの国際大会が増え、球団の垣根を越えて同じユニホームを着る機会が多くなった。ベース上で敵同士が仲良く話す光景も珍しくない。 オフになれば、違…
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「ガルベスと牛乳で仲直りしよう」…大豊泰昭さんの提案を断固拒否してそれっきり
1996年5月1日、巨人戦で勃発したガルベスとの大乱闘で試合は32分の中断。俺とガルベスは仲良く退場となった。 当時、俺の考えの根底には「外国人に日本の野球をナメられたくない」という強い思い…
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俺と巨人ガルベスの大乱闘の一部始終…落合博満さんのヘッドロックには気を失いかけた
令和になって乱闘は「天然記念物」になった。ただ、俺らの現役時代、特に星野仙一監督時代は日常茶飯事だった。 今でも「乱闘といえば」といって話題にあがるのが、1996年5月1日の巨人戦。ナゴヤ球…
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まさかの故障で失意の最中「お前はラッキー」…トシさんの言葉がなければ今の俺はいない
1996年の開幕前、脇腹を痛めて絶体絶命だった俺は10日間、まったく練習せず球場にも行かない「超安静」を決断した。 オープン戦が終わってトーナメントリーグ(※)が始まっても、家でボーッとする…
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星野監督の意外な優しさに驚いた。開幕直前「脇腹痛でバットを振れない」と報告したら…
1995年オフ、星野仙一監督の指令で、22キロの大減量に成功した。春季キャンプの初日に星野監督の前で体重計に乗り、88キロで計量をパス。無事に2月1日のキャンプインを迎えることができた。 2…
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そうだ、風邪をひけばいいんだ!減量に行き詰まった末、裸同然で極寒の庭へ飛び出した
1995年の秋季キャンプ終盤、星野仙一監督から20キロの減量を命じられた。走り込み、サウナ、食事制限と過酷なメニューをこなし、15キロ減。2月1日の春季キャンプインまで2週間を切り、あと5キロが遠か…
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カムバック星野監督の“2カ月20kg”の無茶ぶりに「嫌です」なんて言えるはずもなく…
「今何キロあるんや?」 1995年オフ、5年ぶりに星野仙一監督が復帰した。2度目の就任だ。秋季キャンプ終盤、監督室に呼び出されるなり、こう聞かれた。 俺が「110キロくらいです」と答え…
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星野監督の退任にガッツポーズも…あまりに早すぎる星野監督の現場復帰に頭を抱えた
これまで星野仙一監督の型破りな言動を書いてきたが、俺も破天荒にならなければ、ここまで生き残ることはできなかったかもしれない。 俺が一軍に定着できたのは1995年の9年目。これだけの遅咲きで、…
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叱責、鉄拳、罰金…試練の日々で星野監督よりも「怖かった人」
星野仙一監督時代の叱責、鉄拳、罰金……。試練の日々で救いだったのは、名参謀・島野育夫さんの存在だった。 星野監督の1次(1987~91年)、2次政権(96~2001年)でヘッドコーチなどを歴…
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敵軍・大野豊さんの“余計な一言”で理不尽すぎる罰金「7ケタ」のとばっちり
罰金の話の続きをしよう。 俺が食らった最高額は100万円。1回目は3年連続で春季キャンプ初日に風邪をひいたとき。2回目は1996年6月15日、広島戦(広島市民球場)でのことだった。 …
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巨人戦の殊勲打で星野監督から"出どころ不明"の100万円、そのぶん罰金もたくさん取られた
「打倒巨人」をテーマに掲げていた星野仙一監督。その熱量の高さは「賞金」にも表れていた。 当時、試合での活躍に応じて、監督賞が出た。ペナントレースを左右する大一番になるとお金を弾んだりするものだ…
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星野監督の鉄拳は「戦略」だった…楽天時代の俺は分かった上であえて皆の前で怒られていた
プロ野球生活の27年間を振り返っても、「闘将」と呼ばれた星野仙一監督は派手なタイプの指揮官だった。 負ければベンチを蹴り上げ、勝っても納得がいかなければ選手を叱った。それを一種のパフォーマン…
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「俺に飲めっていうんか!」 星野監督はビンを叩きつけて粉砕…打倒巨人の執念は凄まじかった
血の気の多かった星野仙一監督が最もヒートアップしたのが巨人戦だった。「打倒巨人」のエネルギーは凄まじく、巨人戦の前だけは移動休みがなかった。 たとえば、火曜日からの3連戦の場合、前日の月曜日…
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気温50度の灼熱キャンプなのに「寒い」…中村武志さんは「死ぬかもしれん」と言った
俺が若手の頃、星野仙一監督から最も「愛のムチ」を受けていたのは捕手の中村武志さんだったと思う。2年先輩で、俺が入団したときはすでに正捕手候補として一軍でプレーしていた。 同じ捕手では太刀打ち…
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今なら炎上だけじゃ収まらない…星野監督は正捕手・中村武志さんを日常的にボコボコに
俺が長く仕えた星野仙一監督はまさに「闘将」だった。試合中、劣勢の展開になるとベンチを蹴飛ばし、選手を怒鳴りつける。試合に勝っても、選手が不甲斐ないプレーをすれば、監督室に呼び出し、鉄拳が飛ぶのは日常…
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星野監督は中村武志さんを張り倒した直後、3ランを打った隣の俺にも鉄拳制裁…メチャクチャ痛かった
一軍デビューを果たしたプロ3年目は20試合に出場したものの、本塁打はゼロ。しかも、その数少ない一軍戦で屈辱を味わった。 1989年10月15日の広島戦(広島市民球場)で上原晃(沖縄水産高↓8…
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オレが「記念品」にまったく頓着しないワケ…初ヒット、通算350号の記念球も誰かにあげた
プロ3年目の1989年9月10日、初の一軍昇格から3試合目のヤクルト戦で、ようやく初安打を打つことができた。 ホームのナゴヤ球場。4点を追いかける九回裏に代打で打席に立ち、左前にポテンヒット…
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1000円の小遣いでも嬉しかったほど安月給でも、「カネはない」など口が裂けても言えなかった
プロ3年目で一軍初出場となった1989年9月7日。初打席の空振り三振で味わった一軍と二軍の実力差。「上」と「下」の違いは待遇面にも及ぶ。 星野仙一監督はあえて、一、二軍に大きな格差をつけた。…
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広島市民球場でプロ初出場も…一軍との大きなレベル差を痛感した
初めて一軍に昇格した1989年9月7日にプロ初出場を果たした。 舞台は広島市民球場。九回表、同期の遠田誠治さん(85年6位指名、新日本製鉄室蘭を経て翌86年オフに入団)の代打としてバッターボ…