山﨑武司 これが俺の生きる道
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“時の人”だった田尾安志さんに挨拶して後悔 やっぱり「媚びてアピール」していると思われた
2004年9月28日、オリックスから人生初の戦力外通告を受けた。 「もう野球をやめよう」 ユニホームを脱ぐことを決意。伊原春樹監督と波長が合わず、ケンカ別れしたこともあるが、何よりも力…
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クビになってからの逃避行 ミニカーファンの同志30人とエコノミーでドイツへ飛んだ
2004年9月5日、伊原春樹監督から「使えねえ」と吐き捨てられ、二軍落ち。「もう野球をやめよう」と決意した。 ロッカールームにあった荷物をまとめ、自宅のある愛知に戻った。来年から何をしようか…
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ケンカ別れした伊原監督から“まさかの誘い”も「何を今さら」と断った
オリックスでは伊原春樹監督と何度も衝突し、気付けば野球が大嫌いになっていた。 2004年9月5日、チームが最下位を独走する中、二軍行きを命じられ、その理由を聞きに行くと、「使えねえ、いらねえ…
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ボイコットの前には“伏線”が…伊原監督の酷すぎる一言にプッツン「オメエの方が使えねえんだよ!」
2004年4月28日、伊原春樹監督と激しく衝突した。理由は地元であり古巣のナゴヤドームで開催された試合(西武戦)でスタメンを外されたこと。伊原監督には「名古屋の試合だけはスタメンで使ってください。頑…
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伊原監督に怒鳴り込み、中村GMには泣きついて…スポーツ紙に“ボイコット”と書かれた顛末
2004年、オリックスでの2シーズン目を迎えた。この年に就任した伊原春樹監督には、春季キャンプのときから何度もお願いしていたことがあった。 それは「地元であり古巣の本拠地である名古屋で開催さ…
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「ノーバント宣言反故」の直後に大事件…伊原監督にメンツを潰され、抑えきれない怒りが湧いた
オリックスで2年目のシーズンを迎えた2004年。2年連続最下位のチームを立て直すべく、伊原春樹監督が招聘された。 当時、西武の黄金時代を支えていた伊原さんは機動力野球のイメージが強く、長打を…
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伊原春樹監督との“壮絶確執”の前日譚 監督就任を知って絶望、引退が頭を過ぎった
2003年に移籍したオリックスは目まぐるしい監督交代劇が続いた。 4月23日に成績不振(7勝12敗1分け)で石毛宏典監督が電撃解任されると、打撃コーチだったレオン・リーが監督に就任。レオンは…
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「おまえに4番を打ってほしい」石毛宏典監督は最後の試合前にこう告げた
2003年、「オリックス山﨑武司」として初めてのシーズンが幕を開けた。 3月28日、近鉄との開幕戦は「7番・DH」でスタメン出場。4打数1安打だった。しかし、チームは開幕4連敗。前年の最下位…
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これがプロ野球?セとパの人気格差に愕然、「現役おしまい」を考える日々が続いた
2003年の春季キャンプは不安いっぱいのスタートだった。02年オフに平井正史とのトレードでオリックスへ移籍が決定。年明けの1月16日、オリックスの入団発表会見で初めて中日以外のユニホームを着た。翌1…
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「嫌だ。だって俺まだ伸びしろがあるもん」47歳の山本昌さんは同時引退の誘いを一蹴してそう言った
山本昌さんと距離が縮まったきっかけはラジコンだった。 俺はもともとラジコン好きで、寮の隣にあったスーパーマーケットの駐車場でよくリモコンを使って遊んでいた。 1988年2月に昌さんが…
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日本ハム臨時コーチ就任の顛末…「今年こそ優勝を狙いたい」、新庄監督は電話で俺に訴えた
1月末、俺の携帯電話に知らない電話番号から着信があった。 「今年こそ優勝を狙いたいんです。そのために本塁打を増やしたい。だからその極意を選手に教えてもらえませんか」 声の主は新庄剛志。…
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懇意の先輩・山本昌さんは努力の天才 他人の評価に我関せず「自分は自分のことをやればいい」
2002年オフ、山田久志監督への不信感から中日にトレードを直訴した。3年契約のうちまだ2年を残していたが、編成担当だった井手峻さんにわがままを言ってオリックスへの移籍が決定。03年1月7日、平井正史…
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オリックスへのトレードは中日が年俸の半分を肩代わりしてくれて実現した
2002年7月、山田久志監督の下では野球ができないと決意し、編成担当だった井手峻さんにトレードを直訴した。 子供の頃からファンだった憧れの巨人、相性がいい神宮球場が本拠地のヤクルトに行きたか…
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「事件を起こしそうです」 山田久志監督と対立、編成・井手峻さんに巨人かヤクルトへのトレードを直訴した
「チームを奈落の底へ落としてしまう選手がいる」 2002年7月26日の阪神戦でサヨナラ負けを喫した翌朝、中日スポーツを開いた俺は、山田久志監督の試合後のコメントを見てカチンときた。 「ハ…
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だから山田久志監督とは決別した 「殴って辞めたろうかな」妻に相談すると…
2001年オフ、FA権を行使した上で、中日残留を決めた。しかし、オープン戦から調子が上向かない。開幕後も復調できずにいると、開幕6試合目でスタメン落ち。そして4月29日、二軍行きを告げられた。 …
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「家を建てるとトレードされる」「4番は放出される」中日の不吉な2つのジンクスに俺は…
2001年オフ、悩みに悩み抜いて国内FA権を行使した。中日での立場に不安を抱き、横浜から熱心な誘いを受けて移籍へ大きく天秤が傾いた。 しかし、現役時代に通算284勝した大投手で、同年オフに就…
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横浜とのFA交渉で引っ掛かった森祇晶監督の冷淡 落合博満さんは非通知着信で「探り」を入れてきた
国内FA権を行使した2001年オフ。11月7日に中日と3度目の残留交渉が終わり、その2日後、獲得に乗り出してくれた横浜の大堀隆球団社長と初めてお会いした。 「うちのチームにどうしても必要なんだ…
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中日からFA宣言した交渉の一部始終 2001年オフは「残留」と「移籍」で揺れる毎日を過ごした
国内FA権を取得した2001年オフは、「残留」と「移籍」で揺れる毎日を過ごした。 10月18日にはナゴヤ球場で秋季練習がスタート。32歳のレギュラー選手である俺も、なぜか当たり前のようにメン…
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「おまえになんか、値がつかないよ」編成本部長の捨て台詞でFA宣言を決意した
2001年のオフ、初めて国内FA権を取得した。それまで、球団との契約交渉の席で罵られたこと、00年、打率が3割を超えても本塁打数が少ないと評価されなかったことが引っかかっていた。球団の対応に疑念を抱…
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査定担当から浴びせられた辛辣な低評価の数々…球団はオレを必要としているのかと疑念を抱くようになった
アップシューズで打席に立った2000年。ヒットを量産できたのは、ケガの影響もあった。前年の1999年、リーグ優勝を決めた9月30日のヤクルト戦で骨折した左手首がまだ完治しておらず、痛みも残っていた。…
