山﨑武司 これが俺の生きる道
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広島市民球場でプロ初出場も…一軍との大きなレベル差を痛感した
初めて一軍に昇格した1989年9月7日にプロ初出場を果たした。 舞台は広島市民球場。九回表、同期の遠田誠治さん(85年6位指名、新日本製鉄室蘭を経て翌86年オフに入団)の代打としてバッターボ…
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理由はもちろん星野監督…一軍昇格の知らせに「うわ、最悪だ」が先立った
「一軍」という場所はプロ3年目まで縁がなかった。2年目の1988年にはチームがリーグ優勝したけれど、「まったくの他人事」という感覚。優勝した実感がないどころか、自分にとっては何の関係もない出来事のひと…
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キャッスルで結婚式を挙げるはずが…「派閥の親分」の一言で断念、ヒルトンになった
かつて中日には「派閥」があった。俺が「親分」として慕っていたのは沢村賞投手の小松辰雄さんだ。 プロ2年目で二軍暮らしだった俺は、故障で二軍調整中だった小松さんからキャッチボールの相手を頼まれ…
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「掟」を破ってナゴヤ球場に外車で乗りつけたら「小松の親分」にコッテリ絞られた
俺が本格的に寮生活を始めたのはプロ2年目から。というのも、ルーキーイヤーは米国とドミニカ共和国の野球留学に費やし、ほとんど日本にいなかったからだ。 最初は名古屋市中村区にあった寮に入った。…
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地獄の浜松キャンプでは自分の脇腹負傷にガッツポーズ、束の間の休息が本当に嬉しかった
1987年の秋に経験した地獄の浜松キャンプでは、「入団5年目以内の選手は全員、球場から宿舎まで走って帰る」というルールがあった。先輩はバスに乗れたが、若手はバスを禁じられたのだ。 浜松市営球…
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さらなる地獄だったあの日々、痛みを訴えた脇の下のビー玉サイズのシコリをギュッと握りつぶされて…
1987年秋、ドミニカ共和国への留学を終え、ようやく日本へ帰国した。ルーキーイヤーのすべてを米国とドミニカで過ごし、二軍の試合に一度も出ないままプロ1年目のシーズンが終わった。 帰国してまも…
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“島流し”されたドミニカで苦労した言葉と食事…寮はジャングルの中にポツンとあった
プロ1年目の1987年、野球留学先のドジャース傘下のルーキーリーグで不甲斐ない成績に終わり、ドミニカ共和国へ“島流し”されることになった。日本に帰国することなく、直接、中南米の国へと渡った。 …
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プロ1年目ドジャース野球留学の内幕…現地生活を大いに満喫した一方、試合には全く出られなかった
1987年、中日に入団してすぐの春季キャンプ中に星野仙一監督から命じられた米国への野球留学。滞在先のフロリダで球団が借りてくれた立派なコンドミニアムにはキッチンもついていたが、食事はもっぱら外食。一…
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米国留学中に大事件!俺と荒川哲男のロッカーは鍵が壊され中身を丸ごと盗まれた
プロ入り直後の1987年3月。18歳でいきなり米国へ飛ばされた俺は、右も左も分からないまま異国の地で毎日もがいていた。 言葉に関しては、グラウンド内ではドジャース球団会長補佐のアイク生原さん…
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突然告げられた強制米留学、現地では毎日ドミニカ人全員に飯を奢り続け、球団の領収書を切った
1年目の春季キャンプ中盤、星野仙一監督に呼び出された。宿舎の監督室に集められたのは、俺とドラフト4位で同期入団の荒川哲男、一軍投手コーチに昇格したばかりの高橋三千丈さん、チームマネジャーの福田功さん…
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嫌というほど味わった練習地獄と主力との待遇格差…俺の初キャンプは毎日がサバイバルだった
プロ1年目の1987年、沖縄・石川の一軍キャンプに同行した。就任したばかりの星野仙一監督が抜擢してくれた。落合博満さんの部屋子になり、約1カ月を過ごしたのだが、練習の内容はというと……まったくといっ…
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落合博満さんと初キャンプでまさかの相部屋、すこぶる憂鬱だった1カ月間の一部始終
入団1年目、沖縄・石川の一軍キャンプメンバーに選ばれた。高卒ルーキーは5年近く二軍で下積みするのが当たり前だった時代。星野仙一監督の大きな期待を感じた。それは宿舎の部屋割りにも表れていた。なんと、「…
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俺の背番号「22」の誕生秘話…星野監督が「田淵幸一のようになってほしい」と
プロに行くと決めてから、俺には絶対に行きたくない球団が3つあった。1つは南海。お金をあまりつかわないイメージがあって、活躍しても「1億円プレーヤー」の夢はかなわないと思った。 もう1つは広島…
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時効だから言うが…巨人は俺への「必ず1、2位で指名する」の“確約”を反故にした
星野仙一さんとの出会いは高校3年の春だった。中日で1度目の監督になる前年、1986年のことだ。 NHKのスポーツ番組でキャスターをしていた星野さんが突然、春日井市にある愛工大名電のグラウンド…
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俺が監督になったら茶髪とヒゲを「禁止」したい根拠…立浪和義のやり方には思うところもある
前回、中日時代にお世話になった星野仙一監督の選手管理について書かせてもらった。 2005年に入団した楽天でも、あの野村のオヤジ(野村克也元監督)が茶髪とヒゲを禁止にした。就任1年目の春季キャ…
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立浪和義の「白米禁止令」は星野仙一イズムの継承だろう…かつては自身も大目玉を食らっていた
立浪和義が監督を務めた2022年から24年までの3年間を振り返ると、チームに活気や明るさが欠けていたといわざるを得ない。 23年8月にはバンテリンドームの食堂から白米が消えたと騒ぎになった。…
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オレが立浪和義にコンプレックスを抱いた深層…現役時代は一度も食事したことがなかった
スター選手だった立浪和義は、星野仙一監督から特別扱いを受けていた。監督自身がクジで引き当てたこともあり、お気に入りの選手だった。俺への接し方とは、態度や言葉の言い回し、全てが違った。 星野監…
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“二軍とほぼ無縁”立浪前中日監督にはスーパースターゆえの苦労があったと思う
最近はプロでそこまで実績やキャリアがない人でも監督になれるようになった。今の12球団を見渡しても、楽天の三木肇、オリックスの岸田護のように、必ずしもスター選手ではなかった指導者が一軍監督を務めている…
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中日についてオレが思うことを言っちゃおう。一向に補強もせず、本当に勝ちたいのだろうか
井上一樹監督とは現役時代、苦楽を共にしてきた。グラウンドの外では「タケニイ」「カズキ」の仲。もちろんプロ野球の監督としてリスペクトしている。間違っても球場で「おお、カズキ」なんて言っちゃあいけない。…
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【新連載】現中日監督の井上一樹が「付き人」に間違えられ…一般人に激怒した夜
「タケニイ」 今季から中日の監督になった井上一樹はオレのことをそう呼ぶ。 若い頃、ずっと二軍で同じ釜の飯を食ってきた3つ下の後輩。カズキは投手として入団してきたこともあり、捕手だったオ…