レギュラー昇格後に待っていた補欠先輩からの激しいイビリ ボコしてやろうと思ったが…
愛工大名電の1年生だった1984年夏、県大会前の練習でミスを連発する3年生に中村豪監督が激怒。「もう誰でもいい! おまえが入れ!」と指さした先にいたのが俺だった。
入ったばかりの頃は声出しと球拾い。あとはひたすら走るばかりで、野球部というよりは陸上部だった。今のような理にかなった科学的なトレーニングは皆無。一般入試で入った生徒を含めて約100人が野球部に入部したものの、1日で半分になった。練習らしい練習はさせてもらえなかったが、上級生の試合を見ては心の中で「俺の方が打てるし、ボールも速く投げられる」と思っていたから、少し実力を見せてやろうと力をこめて二塁へ送球。すると中村監督からこう言われた。
「明日から毎日入れ」
その日を境に、野球をさせてもらえるようになった。夏の大会後、1年の秋には捕手でレギュラーに。ところが俺はあろうことか、中村監督にこう直訴した。
「僕、投手をやりたいんですけど」
遠投は120メートル。肩には自信があった。もともと中学の頃から投手をやりたかったが、同級生にPL学園に行くほどの実力投手がいて、やらせてもらえなかった。だから、高校に行ったらやりたい(!)と思っていたのだ。
1年坊主が名門の名電の監督にポジションをめぐって意見するなんて信じがたいが、エースよりも速い球を投げられる自信があった。
しかし、監督は「おまえは打つ方でいけ」とすぐに却下。あのとき投手をやっていたら、どうなっていたのだろうか。打者としての適性を見抜いてくれて良かった。
初めて背番号「12」をもらい、喜んだのも束の間、打順は6番。「何で4番じゃないんだ」とここでもまた不満タラタラだった。中村監督いわく、「過去に下級生で4番を打ったやつがいないから」というのが理由だったらしい。納得はいかなかったが、レギュラーになったことで寮での雑用が少し減ったのはうれしかった。
その代わり、増えたのが補欠の上級生からのイビリだった。寮生活での雑用は減ったものの、補欠の先輩たちからのイビリは酷くなっていった。
「グラウンド走っとけ」
「1・2・3座りやれ」
「空気椅子しろ」
そんなことを3時間も4時間もやらされた。3年間でぐっすり眠れた記憶はない。寮の階段は手すりを使わないと上り下りができないほど全身が痛かった。
上級生の補欠はやることがなくなり、ストレスの矛先が後輩に向けられるのはどこの野球部でも見られる光景だった。
理不尽の連続に、「あの先輩を殴ってやめたろうか」と思う日々。「あんなやつ、ケンカだったら絶対に負けねえのに」と何度も拳を握った。それでも
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