“完全無名”だった俺が愛工大名電に入学できたワケ…きっかけを作ってくれたのは7歳上の兄貴だった
中学時代は軟式野球部でまったく結果を出せず、3年最後の夏は地区予選で1回戦負け。高校野球部からのお誘いはゼロだった。ところが、父親から「頑張ればプロ野球選手になれるぞ」と言われ続け、母親譲りの打たれ強さのおかげか、「プロ野球選手になるものだ」と信じて疑わなかった。
そうはいっても、野球部からのスカウトはない。俺が中1だった1981年の夏、名古屋電気(現愛工大名電)が甲子園に出場。5歳上の工藤公康さんが無安打無得点を記録してベスト4に進出する活躍を目の当たりにした(工藤さんは81年ドラフト6位で西武入団)。
工藤さんと同級生の山本幸二さん(現巨人査定室長)が巨人、中村稔さん(元NPB審判員、現楽天「泉犬鷲寮」寮長)が日本ハムに入ると、翌82年には高橋雅裕さん(現BC群馬監督)が大洋、83年に安達俊也さんが近鉄に入団。名電は毎年のようにプロを輩出し、当時は「プロ野球養成学校」なんていわれていた。
だから、「プロ野球選手になって巨人に入る」と思い込んでいた俺は「入るならやっぱり名電だよなぁ」なんて言っていたものだ。
その頃、7歳上で大学生だった兄貴が教育実習のために名電へ行っていた。そのときの担当教師が倉野光生さん(現野球部監督)だった。当時コーチだった倉野さんに兄はこう聞いたという。
「弟が野球をやっているんですが、どうやったら名電に入れますか?」
すると倉野さんは「それなら一度連れて来い」と言ってくれた。後日、セレクションという形でテストを受けて本塁打を打ち、無事に合格。憧れの名電野球部に入部することができた。
名電には毎年、特待生が15人ほど入ってくる。そのほとんどが地元で名をとどろかせてきた中学のスター。一方、俺は兄のツテで入ったテスト生ながら特待生扱いだったが、中村豪監督は俺のことなんて全く知らず、期待すらしていなかったと思う。
特待生扱いの俺は寮に入ることに。全学年で50人ほどの集団生活を送ることになったが、ここがまさに“地獄”だった。
キツかったのは練習ではない。
この記事は有料会員限定です。
日刊ゲンダイDIGITALに有料会員登録すると続きをお読みいただけます。
(残り475文字/全文1,361文字)
【ログインしていただくと記事中の広告が非表示になります】
今なら!メルマガ会員(無料)に登録すると有料会員限定記事が3本お読みいただけます。


















