テレサ・テン
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(14)テレサが自作の詩に込めた「愛の苦海」という心情
テレサ・テンは中国の漢詩を学び、自分でも書きたいと詩を習作してきた。没後に公開された作品の冒頭と最終節を日本語訳で紹介する。前号で紹介したパリのアパルトマンに残されていた「冬夜裡吹來一陣春風」(冬の夜に春風がひと吹き)とは別の詩だ。...
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(13)行きつけの中華料理店で聞いた謎の人物
テレサ・テンが住んでいた香港とパリの住居に入り、日常生活の雰囲気に触れることができた。長い時間、その空間で暮らしてきたパリのアパルトマンの机上には、多くの郵便物といっしょに彼女の直筆の詩が置いてあった。B4の紙に愛と悲しみをテーマに...
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(12)テレサの部屋は何から何までピンクで埋め尽くされていた
テレサが「北京青年報」の関鍵記者に語ったことは、プライベートな自宅にあった日用品や書籍からも、事実だったことがよくわかる。歌手としての内面が見て取れたからだ。彼女の住まいはタイのチェンマイで亡くなったとき、パリだった。香港の住居を訪...
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(11)テレサの暮らしぶりがそのまま残っていた自宅に入った
1995年5月8日に42歳のテレサがタイのチェンマイで亡くなった。そのあと、私は彼女が長年暮らしていた香港の住宅と最後の住まいとなったパリのマンションを訪れた。テレサ・テンの全生涯をたどるには、どうしても生活の拠点を自分の目で確認し...
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(10)テレサの周辺の人々はみんないなくなった
テレサ・テンの取材をはじめてからというもの、私のナビゲーターになってくれたのは、彼女をスカウトした日本ポリドールの制作部長だった舟木稔さん(のちにトーラスレコード社長)だ。多くの人を紹介してもらった。マネジャーだった弟の鄧長禧(ジム...
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(9)テレサがのめり込んだ中国の古典詩の世界
1985年1月30日深夜、「北京青年報」の関鍵記者がシンガポールのテレサ・テンにいきなり電話をした。翌日の紙面に掲載されたインタビュー記事を読んで、彼女が正直に語っていることがわかった。テレサは日常生活のなかで中国の古典詩や小説、と...
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(8)祖国の将来に大きな期待を抱いていた
1985年1月30日午前0時12分。シンガポールにいたテレサ・テンへの北京からの電話は、中国についての話に進んでいった。関鍵記者がテレサの曲は大陸の若い世代に好まれていると言うと、少し考えているようだった彼女はこう口にした。 ...
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(7)「精神汚染」といわれたテレサのインタビュー記事にデスクの戸惑い
テレサ・テンの歌声は、1979年に大陸に入っていくと、瞬く間に全国へ広がった。中国が鄧小平指導のもとで1978年から「改革・開放」路線をとり、経済改革とともに対外開放方針を進めたからだ。毛沢東路線からの大転換により、西側の文化が大陸...
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(6)逡巡した末にかけた電話。53分間のインタビューが始まった
1985年1月30日深夜0時12分。シンガポールの自宅にいたテレサは、前日、32歳になった誕生日をひとりで過ごし、そろそろ眠ろうとしていた。そのとき部屋の電話がいきなり鳴った。相手は「北京青年報」の関鍵記者だという。 この夜...
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(5)荻窪の薄汚れたアパートにスクープ記者が住んでいた
東京・中央線の荻窪駅の北口を出て青梅街道を渡ってすぐ左側に「教会通り」がある。その先には「セブンスデー・アドベンチスト天沼教会」がある。井伏鱒二の「荻窪風土記」にも出てくる教会で、通りの由来になった。ゆるやかに曲がる狭い道に沿って進...
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(4)日本、台湾、中国で異なるテレサ・テンの評価
日本人にテレサ・テンという歌手の人物像はどう映っているのだろうか。それは中国、台湾をはじめ世界に広がっている華人社会での評価(評判)とも重なり、また、すれ違っている部分もある。 中国・上海の衛星放送は6年の時間をかけてテレサ...
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(3)私が都はるみ、テレサ・テンに惹かれた理由
テレサ・テンに興味を持ったのは、日本人に知られた存在で、いまの時代に生き生きと輝いている女性の物語を書きたかったからだ。 フリーランスで仕事をするようになった私は当時、どんな原稿依頼でも引き受けていた。生きるためである。やが...
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(1)「あなたの人生を書きたい」と伝えると、テレサは「中国と闘う」と宣言した
テレサ・テン(鄧麗君)がタイのチェンマイで亡くなったのは1995年5月8日だ。日本では地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の麻原彰晃が逮捕される8日前のことである。私は麹町の日本テレビから赤坂にあるTBS(東京放送)に向かっていた...