テレサ・テン
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(68)チェンマイのホテルで人生最後に歌った歌
テレサ・テンがフランスで知り合った14歳年下の恋人ステファン・ピエール。2人はタイのチェンマイでも生活を共にした。カメラマンを自称していた彼は、プライベートビデオを撮影している。1995年5月8日にテレサが急死したあと、遺族はピエー...
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(67)死の直前、チェンマイで毎日食べていた30バーツの鶏肉麺
2025年3月14日から週に1回この連載をはじめたとき、編集者とは48回で終わる約束だった。紙面の都合で何度か休載があったが、12カ月だ。いま67回目の原稿を書いている。何しろ10年を費やした取材だ。キリがない。70回目を最終回と定...
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(66)チェンマイのお気に入りのホテルでの束の間の安息
チェンマイは、バンコクから710キロほど北に位置するタイ北部の中心都市だ。飛行機に乗れば約1時間で着くが、陸路で移動すれば約10時間。市内に城壁が残っているのは、13世紀にラーンナー・タイ王国の王都として栄えた名残である。寺院は30...
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(65)恋人ステファンとの喧嘩、死の直前のチェンマイ滞在
テレサ・テンが1990年にステファンと出会って個人的交際がはじまってからというもの、2人は未知の土地を旅することに楽しみと安らぎを感じていた。ところが、時間が経つにつれ、価値観や生活習慣の違いから、しばしば喧嘩をするようになる。 ...
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(64)恋人ステファンとの出会いと蜜月
1990年に入りテレサは「涙の条件」「Yes、愛につつまれ」をパリで収録した。スタジオ「タブー」には、パリはもとより、ロンドン、ロサンゼルスからミュージシャンが集められた。なかにはロッド・スチュワートのツアーベーシストも含まれていた...
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(63)胸の谷間をつくったパリでの生活
テレサ・テンが天安門事件で深い失意にあった1989年は、東欧社会主義国が崩壊していく一年でもあった。彼女はベルリンの壁が崩れた11月9日から11日後の20日に香港を離れてパリに向かった。音楽活動と生活の拠点を移すためであった。パリで...
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(62)天安門事件後、それぞれの人生の暗転
テレサ・テンの上海、北京でのコンサートは結局実現しなかった。 新華社香港分社副社長の喬宗淮は1944年7月に喬冠華の長男として生まれている。喬冠華は中国政府(国務院)の外交部長(外務大臣)などを歴任した最高幹部のひとりで、外...
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(61)ザ・ベストテンで語った「民主」と「自由」への希求
台湾では「愛国芸人」、一方、中国では「精神汚染」と排斥されていたテレサ・テン。しかし、テレサの歌声は大陸ではカセットテープで流通し、その影響力を無視できなくなった。「北京青年報」のインタビューをきっかけに、テレサを大陸に招いてコンサ...
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(60)中国共産党に届けられたA4・10枚の極秘レポート
42年間の短い人生でテレサ・テンが見た夢は何だったのだろうか。いま存命なら73歳。おそらくパリで自由に暮らしながら、歌手はずっと前に引退していただろう。 都はるみが引退を表明せず、いつのまにか大衆の前から消えていったように。...
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(59)中国でのコンサートが動き出した共産党青年団最高幹部の一言
テレサ・テンは中国では「鄧麗君」として知られていた。台湾で歌手デビューしたときにつけた名前だ。1983年に中国共産党は西側文化を「精神汚染」として排斥した。そのなかにテレサも入っており、海外から密かに流入されたカセットテープは大量に...
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(58)「精神汚染」のテレサを中国が取り込もうとしたわけ
テレサ・テンを上海や北京に招いて歌ってもらおう──。そもそものきっかけは「北京青年報」の関鍵記者が、所属組織に相談もせず勝手にテレサに電話インタビューし、その内容が記事となり、掲載されたことがきっかけだ。1985年2月1日付の紙面で...
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(57)繰り返されたテレサを大陸で歌わせる計画
テレサ・テンなど西側から流入した音楽を「精神汚染」として排除してきた中国政府。テレサの歌声が収録された大量のカセットテープを押収し、ショベルカーで廃棄するニュースが報じられたこともあった。文化の破壊だ。この連載のはじめに「北京青年報...
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(56)台湾では「愛国芸人」、大陸では「精神汚染」
新宿西口に「思い出横丁」という小道がある。戦後闇市の雰囲気がいまでも残っている文化遺産でもある。かつて「しょんべん横丁」と呼ばれていたのは、トイレがなかったため、男性客が道端で放尿したからだ。いまは夜になると外国人観光客で狭い路地は...
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(55)一卵性双生児のような母親が語ったテレサの貴重な思い出
テレサ・テンに時間をかけてインタビューしたのは一度だけだ。天安門事件とパリでの暮らしぶりを聞いた肉声はミニCDに収録し、文芸春秋から出した拙著「私の家は山の向こう テレサ・テン十年目の真実」(2005年)に付録としてつけた。テレサが...
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(54)中国から亡命した軍人が「テレサに会いたかった」
テレサ・テンが台湾に戻って「愛国芸人」と呼ばれるほど軍隊に協力したことには理由があった。父の鄧枢がかつて軍人で、国民党軍として大陸から追われてきたひとりであったこと、兄も軍人になっていたこと、家族への深い思いがあったからだ。しかし同...
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(53)台湾に戻る条件は2つだった。テレサは愛国芸人になっていく
テレサ・テンの母親、趙素桂とは台北で3度にわたり、長い時間、お話を伺った。1995年5月8日にテレサが42歳で亡くなったとき、彼女は68歳だった。小柄で穏やかで、品格がある女性だった印象が残っている。テレサが香港や日本で活動をはじめ...
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(52)台湾からは執拗な帰国工作が繰り広げられた
1979年2月、本人にとっても思いがけず起きた「パスポート事件」。台湾当局はその後、テレサ・テンに戻るよう執拗に働きかけていた。アメリカが中国と国交を樹立、台湾と断交したのが1月。台湾は国際的に孤立した。警官隊が民主化運動を弾圧する...
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(51)テレサ・テンは中国の夜を支配していた
「パスポート事件」をきっかけにアメリカでの暮らしをはじめたテレサ・テン。1980年にはロサンゼルスのマンションを拠点に勉学だけでなく、スポーツやレコーディングなど、自由な時間を楽しみ、満喫していた。その頃、中国大陸では鄧小平の改革・開...
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(49)パスポートはインドネシア政府が発行した本物だった
「パスポート事件」をきっかけに、テレサ・テンは台湾と中国の政争に期せずして巻き込まれていく。とはいえ、アメリカに向かった“24歳”の彼女には、そうした国の事情や政治的思惑など知るよしもなかった。彼女は1977年5月ごろ、友人に海外に出...
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(48)戒厳令下の台湾からはテレサを強制送還せよ、との圧力が
テレサ・テンが入った東京入国管理局の女子収容所は、畳部屋で20人ほどがいっしょに暮らしていた。中国人が多かったので話し相手はいた。そのため気落ちすることは少なかった。テレサの取り調べは入国警備課と審査課の係官が行った。「明日には出す...
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(47)台湾での入国拒否を横で見ていたのは中国時報の記者だった
テレサ・テンがインドネシアのパスポートを使用していたことはなぜ発覚したのか。1979年2月13日、香港から台湾に到着したとき、入管ではビザがないからと入国を拒否された。そのトラブルを目撃している人物がいた。「中国時報」の空港駐在記者...
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(46)インドネシアのパスポートで入国、入管に連行
1979年2月14日水曜日。香港から台湾に戻ったテレサ・テンは、入管で止められて入国できなかった。バッグから出したパスポートがインドネシア政府発行のもので、ビザがなかったからだ。慌てたテレサは台湾から日本に戻るチケットを持っていたの...
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(45)突然、ホテルから入管に連行された衝撃
1979年2月17日。土曜日なので自宅にいた日本ポリドールの編成部長、舟木稔の電話が鳴ったのは午後8時ごろだった。相手はテレサ・テンの母親の通訳をしている佐井芳男。いつもは明るく穏やかな佐井の声が切迫していた。 「テレサが連れ...
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(44)月25万円のギャラは瞬く間に10倍に
デビュー曲「今夜かしら明日かしら」がヒットしなかった落胆。2曲目の「空港」が売れてレコード大賞新人賞を獲得した喜び。それでもテレサ・テンの胸中では複雑な思いが渦巻いていた。日本の芸能界で慣例になっていた「営業」である。俗っぽい言葉で...
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(42)ビキニの水着を渡されて「嫌です」と突き返す
テレサ・テンのデビュー曲「今夜かしら明日かしら」は売れなかった。せっかく香港からスカウトし、期待していただけに、ポリドールも、渡辺プロも納得できないどころか、焦りを覚えていた。誰よりもテレサ本人がそうだったろう。台湾でも香港でもヒッ...
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(41)1曲目が売れず2曲目は「演歌」と「ポップス」の融合に
日本で仕事をはじめたテレサは、香港の歌庁(ライブハウス)で彼女を見いだしたポリドールの佐々木幸男たちに誘われ、有楽町のガード下など安い飲食店に連れて行かれた。ある焼き肉屋で豚足を食べたときは「おいしい」を繰り返してうれしそうだったと...
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(39)台湾出身なのに「香港の赤いバラ」で売り出す
私が通う酒場にこの連載を愛読してくれる常連が何人かいる。あるときこんな感想を聞いた。 「日本でデビューしてからのことを書いてよ。懐かしい曲ばっかりなんだからさー。歌がうまかったよね」 昨年の総選挙を中心となり支えてくれ...
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(38)木村佳乃さんが本物のテレサに見えた
1989年5月27日、香港のハッピーバレー競馬場で行われた中国の民主化支援の集会に参加したことでテレサ・テンの人生は大きく変わっていく。 テレサ36歳。天安門事件まで、あと8日だ。集会で初めて歌った「我的家在山的那一邊(私の...
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(36)カナダにいたピアニストが語った5月27日の全貌
中国の民主化支援を行ったテレサ・テンの姿を見て、その心情を知りたいと思った。 彼女が人生ではじめて歌った「我的家在山的那一邊」。なぜ、この曲を選んだのか。1992年に取材したとき、彼女は「自分の思いが表現されているからだ」と...
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(35)テレサはなぜ、コンサートで「私の家は山の向こう」を選んだのか
1989年5月27日、香港のハッピーバレー競馬場で行われた中国の民主化運動を支援する100人以上の歌手たちによるチャリティーコンサート。ここに突然現れ、歌ったテレサ・テンの姿は、没後30年が過ぎたいまも鮮烈な印象を残している。ファン...
