テレサ・テン
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(7)「精神汚染」といわれたテレサのインタビュー記事にデスクの戸惑い
テレサ・テンの歌声は、1979年に大陸に入っていくと、瞬く間に全国へ広がった。中国が鄧小平指導のもとで1978年から「改革・開放」路線をとり、経済改革とともに対外開放方針を進めたからだ。毛沢東路線からの大転換により、西側の文化が大陸...
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(6)逡巡した末にかけた電話。53分間のインタビューが始まった
1985年1月30日深夜0時12分。シンガポールの自宅にいたテレサは、前日、32歳になった誕生日をひとりで過ごし、そろそろ眠ろうとしていた。そのとき部屋の電話がいきなり鳴った。相手は「北京青年報」の関鍵記者だという。 この夜...
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(5)荻窪の薄汚れたアパートにスクープ記者が住んでいた
東京・中央線の荻窪駅の北口を出て青梅街道を渡ってすぐ左側に「教会通り」がある。その先には「セブンスデー・アドベンチスト天沼教会」がある。井伏鱒二の「荻窪風土記」にも出てくる教会で、通りの由来になった。ゆるやかに曲がる狭い道に沿って進...
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(4)日本、台湾、中国で異なるテレサ・テンの評価
日本人にテレサ・テンという歌手の人物像はどう映っているのだろうか。それは中国、台湾をはじめ世界に広がっている華人社会での評価(評判)とも重なり、また、すれ違っている部分もある。 中国・上海の衛星放送は6年の時間をかけてテレサ...
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(3)私が都はるみ、テレサ・テンに惹かれた理由
テレサ・テンに興味を持ったのは、日本人に知られた存在で、いまの時代に生き生きと輝いている女性の物語を書きたかったからだ。 フリーランスで仕事をするようになった私は当時、どんな原稿依頼でも引き受けていた。生きるためである。やが...
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(1)「あなたの人生を書きたい」と伝えると、テレサは「中国と闘う」と宣言した
テレサ・テン(鄧麗君)がタイのチェンマイで亡くなったのは1995年5月8日だ。日本では地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の麻原彰晃が逮捕される8日前のことである。私は麹町の日本テレビから赤坂にあるTBS(東京放送)に向かっていた...