鳥羽一郎・山川豊 「我らの演歌路」
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<最終回>演歌が流行っていないと街に活気がない
気がつけばデビューから35年目。30年を過ぎるまでは余裕がなくて精いっぱいだった気がする。こんな歌い方をしてお客さんに通じているのかと必死だった。でも、今はきちんとお客さんを意識して歌える。 …
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<第20回>ボクシングジムで子供たちを育てるのが僕の夢
僕の歌で反響が大きいのは「函館本線」よりも「アメリカ橋」です。演歌というより歌謡曲だから、お年寄りは抵抗があったと思うんです。でも、どこか“青春のにおい”がするみたいで、70歳すぎの人でもしみじみ聴…
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<第19回>更生保護司18年、漁港コンサート86回やってきた
長年、歌手をやって社会のために、何かやりたいと思って続けているのが更生保護司と海難遺児チャリティーの漁港コンサートです。どちらも俺の恩人の勧めでした。 更生保護司は実は自分からやりたいという…
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<第18回>兄弟げんかあり、もらい泣きありのコンサート
兄貴とは20年くらい前から兄弟でジョイントコンサートをやっています。本当の兄弟だからステージでは「俺は水を飲んでくるから、おまえひとりでやれ」なんて、兄貴は勝手なんです。他人同士なら、もう「バカ野郎…
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<第17回>兄が食道がんと聞いた時は「やばいな」と思った
兄弟の行き来は最近は少なくなったけど、たまに兄貴が僕の家に来ることがある。 それも午後の3時くらいに来て、「メシ、作れ」って。そういう時、料理がうまい兄貴が作ってくれたりする。それで食べて飲…
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<第16回>8年前に食道がん手術…原因は焼酎の熱湯割り?
「兄弟船」のイメージで酒が強いと思っている人も多いかもしれない。 飲むけど、ハシゴは一切しない。座って長く飲んでいられないし、すぐに眠くなって、家に帰りたくなる。例えば、山本譲二さん、吉幾三さ…
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<第15回>紅白落選 ひとりで仕事に行けと通達された切なさ
デビューから5年、7枚目のシングル「ときめきワルツ」で紅白に初出場。30年前、1986年、28歳のことです。レコード会社での見習から始めて約10年が過ぎていました。 思い出深いのはレコード大…
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<第14回>紅白で弟と一緒に歌った「海の匂いのお母さん」
兄弟で同じ職業、歌い手になったことで、悔しい思いもした。俺は「山川豊の兄貴」と言われ、豊も豊で、「『兄弟船』を歌え」とリクエストされたりしてね。 デビューは豊が先、俺は賞レースに呼ばれたこと…
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<第13回>おふくろは「うちだけで2枠は申し訳ない」と
「兄弟船」を初めて聴いたときは、全身に鳥肌が立った。凄い歌だと思った。六本木に間借りしていた僕のアパートで、ともに歌手を目指す兄貴が鳥羽一郎という演歌歌手となり、瞬く間に大ヒット街道を走る売れっ子にな…
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<第12回>海を歌う歌い手が出てきたと言われた「兄弟船」
実は「兄弟船」は俺のデビュー曲じゃなかったんです。船村徹先生の内弟子になって約2年。馬渕玄三という音楽ディレクターをモデルにした五木寛之先生原作のテレビドラマ「新・海峡物語」(1981年)の挿入歌で…
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<第11回>警備員を振り切って駆け付けた弟の新人賞受賞
船村徹先生はほとんど横にもならない人だったから、付き人も文字通り寝る暇がないってことになる。一体、どういう毎日をどういう気持ちで過ごしていたのか、今となっては記憶がない。 「ウチに来ても、歌は…
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<第10回>日本歌謡大賞のステージに“乱入”してきた兄貴
僕が「函館本線」でデビューした1981年は、歌番組が華やかなころで、賞レースが16個くらいあった。同期は近藤真彦に竹本孝之、沖田浩之、ひかる一平、堤大二郎と若いアイドルばかりで、僕は22歳にして「山…
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<第9回>船村先生のいる寿司屋で「君も一杯飲みなさい」と
船村先生の弟子になる時は直談判したみたいにいわれているけど、少し違いますね。 豊の部屋から電話して後日、船村先生の弟子の作詞家さんから聞いた都内のホテルに、赤福を持って会いに行きました。本当…
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<第8回>おふくろにデビュー曲を電話で聞かせると涙声が…
1980年前後の東京は今より暗くて、飲食店は入りづらく、食べ物の値段も書いていないし、ビルの群れがよそ者を拒絶するように見えた。 上京してレコード会社の宣伝見習として加わり、営業所を回って業…
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<第7回>歌手デビューする弟が調べてくれた船村徹先生の連絡先
マグロ船の実習船を降りて、カツオ船に乗ったのは3年くらい。それから船を降りて、オカにあがって板前になった。船乗りは他に何もできないし、魚は船でさばいていたから、板前の修業に入ろうかということ。 …
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<第6回>涙ながらに送り出してくれた9歳上の女性との別れ
僕は訓練校の1年の時、毎日殴られた。暴力事件で20人も退学になり新聞沙汰になったりした。世の中はひどい。これが社会かって思ったよ。何も悪いことをしていないのに、殴られ蹴られ、とんでもない目に遭わされ…
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<第5回>きついし寝れないしで地獄だったマグロ船の2年間
もっと大きな船に乗りたいと思っていた時に、たまたま水産試験場の船があったんです。俺は当時17歳。水産高校の実習船でした。その実習船に本採用され、臨時で乗らないかという話があったんです。乗組員として。…
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<第4回>兄貴はカツオ船に乗って僕と妹を進学させてくれた
三重県鳥羽市の故郷では、兄貴のことを「ぼん」と呼ぶ。長男は跡取りとして大切にされたから、「坊ちゃん」からきているのだと思う。次男から「おじべ」「くそおじべ」「くそくそおじべ」と続く。ひどい言われよう…
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<第3回>集団就職の時代 中学を出て叔父の元に奉公へ
子供の頃の思い出って何もないんだよね。その場しのぎで生きてきたっていうか、村自体が前回話したようなところだったから。外から人も入ってこない。 ただ、村のお祭りで青年団が演芸みたいなのをやるん…
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<第2回>耳に焼き付いているのは海女だったおふくろの磯笛
ピーッ、ピーッ。波音の向こうで、おふくろの磯笛が響いてくる。どこかホッとして、子守歌のように、黙って耳を傾けていた気がする。海の波に合わせて揺れる、小舟のゆりかごで。 僕たちの故郷、三重県鳥…