保阪正康 日本史縦横無尽
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吉田茂にはライバルの石橋湛山を見捨てる冷たさがあった
大久保利通と吉田茂に共通する性格として、政敵に対して極めて過酷であったことが挙げられる。言い方を変えれば、自らの政治力を高めるために容赦しなかったということだ。第1の開国と第2の開国を担った祖父と孫…
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吉田茂と大久保利通の「開国」をめぐる5つの共通点
明治維新を第1の開国とすると、第2の開国はこの講和条約の発効以後となる。両者にはいくつもの共通点があった。むろん相違点も多いのだが、重要な点では共通点の方が多いと言えるのではないかと、私には思える。…
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吉田茂は「血のメーデー」を治安対策進行に巧みに利用した
この「血のメーデー」は、独立を回復した日本社会に潜在的に流れるさまざまな不安と不満がいかに大きかったかも示していた。警官隊の催涙ガス、発砲に対してデモ隊も火炎ビンや投石で対抗した。皇居前広場とその周…
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5月1日のメーデーで警官は警棒で殴りピストルを水平撃ち
講和条約が発効して3日後の5月1日はメーデーに当たった。この日のメーデーが荒れるだろうとは当初から予想されていた。破防法が議会に提出され、吉田内閣は力で反政府デモを抑える意思を明確にしていた。総評な…
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吉田内閣の政策「左翼」締めつけで血生臭い事件が起きた
吉田内閣の政策について、国内にはあまりに反共政策すぎるという不満と、アメリカの属国ではないかとの不満が渦巻いていた。しかしそういう勢力は東西冷戦のもとで中立を守るべきか、それとも社会主義陣営に与する…
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吉田茂は日米安保への批判を封じるために共産主義を煽った
吉田茂が一人で責任を負うと断じた日米安保条約は、戦後日本の運命を決めることになった。大げさに評すならば、日本はこの時からアメリカの国益の枠組みの中で動かざるを得ない運命を与えられたと言ってもいい。 …
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吉田茂は日米安保が日本社会で問題になることを知っていた
講和条約の調印式が終わったのは昭和26(1951)年9月8日の午前であった。アルファベット順に調印していき、結局、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドは調印を拒否している。形の上では日本は全面講和を選…
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吉田茂は「日本の指導者は武力制圧を考えて行動」と謝罪
講和会議は、アメリカのトルーマン大統領の挨拶から始まった。「今こそ憎しみは捨てよう。これからは勝者も敗者もない。平和への協力者があるのみ」という内容であった。講和条約の提案国としてアメリカ、イギリス…
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サンフランシスコ講和条約は日本の「第2の開国」だった
明治初期の日本が選択すべき道はいくつかあったが、結局、日本は帝国主義的方向を選んだ。その経緯について前回まで指導者のエピソードなどを交えて語ってきた。本日から10回ほどは時代が大きく飛んで、日本が講…
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伊藤博文は板垣退助らの自由民権運動を容赦なく弾圧した
明治10年代、自由民権運動と伊藤博文を中心とする政府は本格的に対立していった。政府は政治的、法的に抑え込む方針を譲らず、その弾圧ぶりは、その後の日本政府の思想弾圧の原型ともなった。 明治15…
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西園寺公望は「天皇はもっとリベラルであるべき」と考えた
自由民権運動を語るときに忘れてならない人物がいる。西園寺公望だ。昭和の時代には元老として天皇に次期首相を推挙したり、天皇の側近として立憲政体を守り抜く役を務めた。軍部にとって最も目障りな人物であった…
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弾圧された民権運動は政治小説となって国民に訴えかけた
民権運動は国民の中にも少しずつ広がりを見せた。歌謡、文学、さらには講談にまで民権をテーマにした出し物が増え、巷では民権数え歌までもが愛誦された。文芸評論家の小田切秀雄はその著書「二葉亭四迷」で次のよ…
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中江兆民、大隈重信らによって思想戦、言論戦に変化した
植木枝盛など高知の立志社の会員や、立志社に影響を受けた者の自由民権運動への挺身ぶりは並外れていた。立志社は「人民は国の本なり」と明言し、民会の成立で国家の基本をつくろうと、その覚悟を明確にしている。…
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在野の教育者は「国家を動かすのは人民である」と主張した
明治10年代の自由民権運動は極めてレベルが高かった。幕末、維新と変革が進む中で政府の方向がより国家主義的な内容に進むのに対して、民権思想の鼓吹者たちは人民の意識や知識を高め、これをもって政府の政策に…
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伊藤は相手を敵と判断するや徹底して追い詰める性格だった
伊藤博文は近代日本の創設者として名を残したが、その始まりは大久保利通亡きあとにその地位を引き継ぎ権力の中枢に座ったことにあった。自由民権運動が燎原の火のごとく燃え広がった時代である。しかし伊藤はこう…
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伊藤博文は英国公使館襲撃から開国派に変貌を遂げていく
伊藤博文はもともとは長州の農民の子供であったが、軽卒の伊藤武兵衛の家に養子に入り、それが縁で松下村塾に入ることができた。 幼少時から利発なタイプで、ペリーが日本を訪れた時に警備役の一員に加わ…
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体制の根幹に迫る思想戦に変質していった大久保利通の暗殺
天皇親政は制度上も保証されることになった。明治10年9月、「内閣参朝公文奏上程式」が定められ、天皇は内閣に臨御することになった。国策の重要な政策に天皇が関わることを意味し、参議らもほぼ定期的に上奏す…
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明治天皇は政務の報告を受けて意見を述べるようになった
西南戦争の期間、明治天皇はいわば表情のすぐれない日々を過ごした。その理由は、西南戦争への危惧と自らの役割がどこにあるかを十分に納得できなかったからだった。研究書の中には天皇がうつ状態であったとみる書…
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9月24日、西郷は門弟の別府に「もうよか」と介錯を促した
西郷隆盛の死についてはすでに多くの書物に書かれている。彼は鹿児島の城山に閉じこもった状態で、政府軍の最終的な攻撃を受けた。この時、西郷軍兵士はわずか数百人だったという。この西郷軍を1万人に近い政府軍…
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死を前にした西郷隆盛に届いた山県有朋からの情理の書簡
西郷は敗戦を覚悟して城山に立てこもった時に、どのような心境だったのか。無論それはわからないが、いくつかのことは想像できる。例えば、いつの日か新政府に抗して立ち上がらなければならない時があっただろう、…