保阪正康 日本史縦横無尽
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ハガチーはデモ隊に取り囲まれキャデラックの屋根が歪んだ
6月4日以後もデモは続き、6月8日に大きなデモが予想された。というのは岸がアメリカのアイゼンハワー大統領を日本に招いて調印式を行おうとしていたからだ。その日は6月19日と想定されていた。大統領秘書の…
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「俺たちは賃金をかけてやってるんだ」と袋叩きにあった
安保改定阻止国民会議は昭和34(1959)年3月28日に結成された。総評などの呼びかけで社会党、共産党などを含め134団体を代表する800人ほどによって動きが始まった。1年後の昭和35年3月には16…
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デモのエネルギーで経済大国になれると読んだ首相秘書
新安保反対というより、反岸首相といった流れのデモ隊が国会を幾重にも囲む状況を、いわゆる体制派の人たちはどう見ていただろうか。自民党の有力者で、岸首相の辞任後に首相の座に就いた池田勇人の秘書だった伊藤…
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日本が戦争の時代と決別するための実験だった安保反対デモ
新安保条約への抗議デモの本質は岸首相の体質への不満といってよかった。彼の言動は大衆の怒りの火に油を注いだ。デモの人たちの「声ある声」は少数で、多数の国民は政府に賛成している、私はそういう声を信頼する…
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中高生や商店街など社会全体に怒りのエネルギーが広がった
この日(昭和35年5月19日)の夜から20日の朝にかけては雨が降っていた。その中を労働組合員や全学連の学生たちが国会の周辺でデモを続けていた。その数は3000人ほどだったという。雨の中を国会に突入し…
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新安保の強行採決 国会では議員紹介の暴力団が野党を威嚇
自民党の暴力的な強行採決は、新安保条約の改定をめぐる対立を一気に「議会政治を守るのか否か」に変えていった。ありていに言えば新安保条約は確かに日本が属国状態から一歩抜け出す面をもっていた。駐留アメリカ…
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警官隊を導入した岸内閣 国民は軍事主導体制思い浮かべた
このシリーズでも触れてきたが、サンフランシスコ講和条約に調印して日本は国際社会に復帰した。その折に吉田茂首相は日米安保条約にも単独で調印している。のちに問題になるからとの言を残してである。それからほ…
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60年安保反対デモは日本人が戦争と縁切りする儀式だった
1960(昭和35)年のいわゆる「60年安保闘争」から60年である。60年安保は近現代史上で初めての国民的規模の反政府闘争であった。労働者、学生、市民、主婦、未組織の労働者、それに老人、高校生まで実…
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50人以上の日本人が利用された「ソ連大使館スパイ事件」
日本が占領を受けていた期間(昭和20年8月から27年4月まで)は、東西冷戦が次第に激しくなった時でもあった。東西冷戦は軍事が前面に出てきたわけではないが、「戦争」の一形態であるとの見方がされることも…
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日本人の特徴は“胴長短足” 8頭身で世界を驚かせた伊東絹子
日本人は胴長短足が特徴であった。日清戦争の時に欧米の通信社は朝鮮に上陸して清国との戦いに行軍している日本兵の姿を猿にたとえ、猿の一団が朝鮮に攻め入ったという表現で報じている。そういう侮蔑の心理が欧米…
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米軍の試射場建設ごり押しで発生した石川県の「内灘戦争」
講和条約の発効から5カ月後、アメリカ軍は石川県の内灘村に日本製砲弾の試射場を造りたいと申し出た。政府はそれを受けて石川県に伝えている。アメリカ軍はこの基地を無期限に使用したいとの意向を明らかにした。…
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全共闘運動が学生の怒りから始まったのは当然の現象だった
ベビーブーム世代が青年期、壮年期、そして高齢期を迎えて行く時、彼らの世代体験は常に有史以来の初体験という言葉で語られた。それまで1年に200万人余の同年代が存在することはあり得なかったからだ。もっと…
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3年間で810万人に達した新生児が「第2の開国」を代表した
年が明けて令和2年となった。どのような年になるのだろうか。ちなみに明治で数えると153年、大正109年、昭和なら95年、そして平成32年になる。近現代史はやっと150年を超えたということになろうか。…
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吉田茂首相「バカヤロー解散」で選挙は右と左の百家争鳴に
昭和28年4月の総選挙は、講和条約発効後の2回目の選挙であった。最初の選挙は独立回復から4カ月後に行われた、いわゆる「抜き打ち解散」(昭和27年10月)で、これは吉田茂の政治的独善性の象徴のようなも…
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右翼は戦争を美化 キャバレーでは「軍艦マーチ」が流れた
新しい時代の到来――。昭和27年4月28日以後の日本の風景はまず反米闘争が表面化した。すでに紹介したように、3日後の5月1日の「血のメーデー」などがその例である。アメリカ軍の基地が、ほとんどアメリカ…
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乗客乗員37名全員が死亡した「もく星号」墜落事故の謎
講和条約発効(1952年4月28日)の3週間ほど前の4月9日、羽田空港から福岡に飛び立った日本航空の旅客機「もく星号」が離陸20分後に連絡を断った。日本の各機関が行方を捜索するなか、アメリカ側から静…
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「日本人は12歳の少年」発言でマッカーサー熱が冷めた
マッカーサーが解任され、日本を離れるにあたって、日本社会は一段と興奮状態になった。この国が戦争から解放され、平時の生活に戻ったその恩義をマッカーサーに仮託したということもできた。解任の5日後に、マッ…
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日本人は軍人が政治家に従う民主主義のルールに驚いた
昭和27(1952)年4月28日に、日本はようやく国際社会に復帰できたわけだが、これは基本的な社会構造が変わることでもあった。それまでは国としての独自性を失い、独立国ではなかったのだ。外交権も持たな…
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大久保利通と吉田茂の共通点 天皇を利用した宰相たち
大久保利通と吉田茂の共通点をさらに挙げておこう。それは天皇制を奉じながら、実は天皇を自らの考える枠内にとどめておこうとの計算と表裏の関係で捉えることができる。 第1の開国にあっては結局、天皇…
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吉田茂にはライバルの石橋湛山を見捨てる冷たさがあった
大久保利通と吉田茂に共通する性格として、政敵に対して極めて過酷であったことが挙げられる。言い方を変えれば、自らの政治力を高めるために容赦しなかったということだ。第1の開国と第2の開国を担った祖父と孫…