保阪正康 日本史縦横無尽
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御前会議 軍事指導者たちは昭和天皇に二枚舌を使った
昭和天皇は9月6日の御前会議で戦争を前面に出す政策に公然と反対した。この時に明治天皇の日露戦争時の御製を2度も口にしたのは異様なことだった。普通、天皇はこの会議で口を開くことはまったくなかったからだ…
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昭和天皇は御前会議の最後に明治天皇の御製を2度諳んじた
近衛首相が昭和天皇の前に進み出て、翌日の御前会議でどのような内容を話し合うかを説明すると、天皇はすぐに苛立ちを示した。というのは近衛の持参した「帝国国策遂行要領」草案にはこれから採るべき日本の選択肢…
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陸軍も海軍も統帥部はすぐにでも戦争を始めようとした
9月3日の政府大本営連絡会議は7月2日の御前会議で決まった「帝国国策要綱」をどのように変えるかの会議であった。3日後の6日の御前会議で政治、軍事指導者はどのような決定を天皇に示すべきか。その最終調整…
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メンツ重視の軍官僚は「対米英蘭戦」の言葉いじりに陥った
軍事指導部の軍人たちは正面きって対米戦を主張せず、極めて狡猾な言い方を試みた。7月2日の御前会議で南部仏印進駐が決まった折、帝国国策要綱には「対英米戦を辞せず」の方針で軍事行動を起こすと明記されてい…
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ルーズベルトとハルの態度の違いに東條らは苛立ちを強めた
対米戦強硬派は何を根拠にアメリカとの戦争を望むのか。2つの理由を挙げればいいであろう。 ひとつはメンツである。陸軍と海軍の強硬グループは、自分たちの存在を誇示するために常に強硬論を吐く。実際…
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米国は日本の暗号電報を読み戦争に持ち込もうとした
ルーズベルトとチャーチルの思惑は、ナチスドイツがヨーロッパを軍事的に席巻している状態をひっくり返すために、アメリカがイギリスをはじめとする連合国側について参戦することだった。ルーズベルトや国務長官の…
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アメリカとイギリスは首脳会談を行い日本の一撃を待った
実は天皇は近衛からルーズベルトとの首脳会談について報告を受けた時に、賛意を示している。南部仏印進駐とそれに対する報復に天皇は困惑していた。石油が入ってこないという状況によって、海軍をして対米戦に傾く…
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元高級課員・石井秋穂に聞いた東条英機の本音と近衛観
近衛が提案した日米の首脳会談について、近衛自身は海相の及川古志郎と陸相の東條に一応は相談している。及川は全面的に賛成と答えたが、東條は「即答できない。陸軍省に持ち帰って検討してみたい」と答えた。近衛…
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軍人たちは原因と結果を考えずヒステリックに叫んでいた
奇妙な言い方だが、軍人たちは原因と結果について重大な考え違いをしていた。この頃の軍人の発想はまるで児戯にも似た面があった。 わかりやすい言い方をすれば、子供(A)が子供(B)を殴ったと仮定し…
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近衛は米国の怒りを鎮めようとしたが、東條は返事を濁した
なぜ軍事指導者は状況を見誤ったのか。自分たちが戦争覚悟で南部仏印に出て行っても、アメリカは戦争までは決意しないだろうと一方的に決めつけていたからである。ところが現実に南部仏印への進駐を始めると、ホワ…
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石油の全面禁輸はない…日本の軍事指導者は甘く考えていた
日本はドイツがソ連に侵攻してほぼ1カ月後に南部仏印に進駐した。ドイツの力を借りて東南アジアでのフランスの政治権力を出し抜き、南方への資源確保を目指す動きなのは明らかであった。もっとも、日本側はナチス…
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ハル国務長官と野村大使による外交交渉で行き違いが明確に
太平洋戦争の原因として最も短期的な見方をした場合、昭和16年6月22日のドイツによるソ連領への侵攻と考えることができる。ドイツがヨーロッパを席巻し、あまつさえソ連にまで勢力圏を拡大しようとするのを見…
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陸軍参謀本部は「北進論」陸軍省と海軍は「南進論」を主張
この頃の国策は軍事が中心になっていた。昭和12(1937)年7月からの日中戦争が一向に解決せず、「聖戦」の名の下で国民に負担を強いているがゆえであった。政治は軍事に振り回されてほとんど力を失っていた…
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昭和16年6月22日、ドイツのソ連侵攻は衝撃的だった
昭和16(1941)年12月8日は日本海軍が真珠湾攻撃に踏み切った日である。この日はさまざまな表現で語られる。日本の存亡の始まりの日とも言えるし、危機突破を試みた初めての挑戦の日という言い方もできる…
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吉田も岸も…安保条約と日満議定書の皮肉な共通点
あの60年安保闘争とは一体何だったのだろうか。今なお見落とされている視点を私なりに整理しておきたい。 吉田茂首相はなぜ昭和26年9月7日の夕方にサンフランシスコの第8軍司令部で日米安保条約に…
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集会のさなかに河上社会党前委員長が右翼青年に刺された
「昭和35年6月19日午前零時」は60年安保の抗議デモが敗北という形で決着がついた日であった。国会を数百万の人々が取り囲もうが、全国いたるところで抗議デモが起ころうが、それは新安保条約の自然承認の前の…
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狂暴化した警官隊は暴力団と共謀して女子学生を撲殺した
6月16日から17日にかけて、日本社会には声明が氾濫した。政府、各政党、財界、労働組合、文化団体、大学、そして新聞社までもが声明を出した。樺美智子さんの死はそれほど大きな衝撃を与えたのである。 …
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東大女子学生の樺美智子の死に学生たちは涙の黙祷を捧げた
1回目の衝突で学生たちは国会の外に押し出され、負傷した学生は病院に運ばれた。だが国会の構外にはまだ学生たちが待機していた。彼らから女子学生の死を知らされた全学連の宣伝カーが国会構内に入り、東大女子学…
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「女子学生が死んだ」という噂がデモ隊の中に広まった
今年は昭和35(1960)年6月15日から60年にあたる。あの時代を肌で知る者は、今も6月15日のことを鮮明に記憶しているだろう。思い出としてはそれほど強烈である。 この日、京都の円山公園で…
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ハガチー秘書への暴挙が抗議デモを萎縮させたという皮肉
ハガチー秘書の自動車を包囲しての暴挙は、国の内外に反響を呼んだ。「暴挙は国際的な常識に欠ける」というのは否めない事実であった。ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストは、日本の民主主義がまだまだ未…