江戸おんな職人余録 第一弾「半端もん」
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(19)千沙の目から熱いものが溢れ出る
ちらちらと雪の舞う大晦日。千沙が鏡をつくりはじめて三ヶ月が過ぎていた。 この日は職人たちも作業はしない。新次のほかは誰もいない、がらんとした鋳造のための作業場に千沙は入った。これから二人で、…
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(18)鏡背の絵柄は薬師如来とシロ
千沙の奮闘が始まった。日光鏡を図案から考えて、一からひとりで作るとなると、急いでも半年はかかる。 初に生きる気力を取り戻してもらうため、文で細かく経過を伝えるつもりだ。 (どうか、生き…
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(17)もう一緒にやっていけない
怒鳴られて千沙は内心怯んだが、 (初姉ちゃん、力を貸して) 初が真後ろに立って支えてくれているのだと思うことで、気持ちを奮い立たせた。 新次を真っすぐに見つめる。 「円屋…
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(16)下駒込村の丘が秋色に染まる
初は確かに約束してくれた。 「わたしの意思で食べないわけじゃないけど、きっと気持ちに負けて、こんな食べ物を受け付けない体になってしまったんでしょうから、お千沙ちゃんの鏡を生きる希望に、もう一度…
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(15)わたし、日光鏡を作るわ
初は光の宿りはじめた目で鏡面を鋭くみつめる。 「お父つぁんの研いだものとも違う。権じいさんの手でもない。……あの人とも違う……」 あの人、とは新次のことだろう。大奥では決して口にしては…
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(14)神紋入りの子鏡に初の顔が輝く
「大奥で後ろ盾がないなんて、死ねと言われたに等しいのよ」 初の言葉が、千沙の心を押し潰すようにのしかかった。 「そんな……」 大奥を知らない千沙にはなにも言えない。 「ここ…
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(13)新次の悪意に満ちた声が蘇る
千沙の中で激しい怒りが煮えたぎった。実際、生まれてこの方、ここまで憤りを覚えたことはなかった。 だのに、さらに許しがたい話が、姉の初の口から飛び出す。 「役立たずなんだって、わたし」 …
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(12)上様の手がついたのは一度きり
「お文は……」 と言ったきり千沙は目を逸らした。 「お父つぁんとおっ母さんに、なにかあったのね」 初は察して、不安げに瞳を揺らす。千沙は追い詰められて黙り込んだ。 「ね、千…
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(11)お千沙ちゃん…これは夢…
お蓉の方-姉の初は、綿布団をかぶり、横になっていた。庶民は薄い掻巻きを着込み、大名家や豪商なら夜着を掛けて寝む。千沙は綿布団を目にするのは初めてだった。 眠っているのか、千沙が寄っても初は目…
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(10)許しもなく声を発せられませぬよう
姉さんに会える。やっと、姉さんに──。 円屋のある下駒込はこの季節、紅葉狩りでにぎわう里だが、千沙には紅や黄の彩りも目に入らなかった。土産物を包んだ風呂敷を抱え、ひたすら姉のいるお城を目指す…
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(9)なんと、か細い文字だろう
春蔵に促され、千沙はその場で文を広げた。大奥に入った姉からの初めての文だ。いったい何が書いてあるのだろう。震える想いで目を通す。 まずは千沙の安否を訊ね、自分は元気にやっていると言い、最後は…
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(8)受け取る千沙の手が震える
新次がなんと口火を切るか──。 千沙の緊張をよそに、新次は睨むような視線を、ふいっと逸らし、 「お前に、お客だよ」 そっけなく用件を告げた。 権じいとの話の中身に何一つ…
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(7)追い出すって、新さんを…
権じいの怒鳴り声が、暗い物置部屋に響き渡った。 千沙は鼻の奥がツンとなるのを感じた。嬉しかったのだ。本当は千沙自身が新次に向かって、言ってやりたかった。 --辛いのは新さんだけじゃない--…
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(6)お千沙は誰の代わりでもない
長月は根津権現様の祭りの月だ。 二年に一度の大祭で、参道は江戸中の人々で溢れかえる。 円屋は、祭りの年は目が回るほど忙しい。 鏡の販路は様々だ。直に円屋に一点物の注文を出す好…
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(5)暇をみつけて続けた研ぎの作業
千沙は目を見開いた。「半端もん」となじられたからではない。 (この人って……こんなに口をきくんだ) 新次が自分に向かってこれほど一度に言葉を重ねるのを、夫婦になってからはじめて耳にした…
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(4)どの工程も身につくのに10年
鏡は気の遠くなるような工程を経てつくられる。 まずは鏡背の文様を定める。多くは、「踏み返し」と呼ばれる技法に頼る。すでに完成している鏡の文様を型に押し当て、鋳型を複製する方法だ。こうすること…
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(3)新次は千沙の前では笑わない
姉の初が大奥へ入って十年が過ぎた。 千沙は二十四歳になっていた。円屋を保つため、初の許嫁だった新次と一緒になって八年。 夫婦仲は情けないほど悪い。 (新さんは姉さんと想い合って…
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(2)見て、お父つぁんの鏡よ
「見て、お父つぁんの鏡よ」 現実とは思えぬ大奥のありさまに呆然と立ち尽くしていた千沙の横で、ふいに姉の初が叫んだ。 「えっ」 「ほら、雛壇の一番上の右端に飾られた鏡」 夢か…
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(1)姉妹で招かれた大奥の雛祭り
千沙は幸せな子ども時代を過ごした。 父は、江戸ではそれなりに名を馳せた鏡師で、道灌山を北に望む下駒込村に数十人の職人を抱える工房「円屋」を営んでいた。 一つ違いの姉の初が、九つ年上の…
