巷説 立川談志水滸伝
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(13)庵野秀明監督と談志の志向には共通点がある
エンタメ業界に変革の波が起きるとき、そこにはむき出しのパーソナリティーが現れる──。 立川流創設から十二年後の一九九五年、テレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」(テレビ東京系列)が放映された…
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(12)「事務所を当てにしねえで自分の力で売れてみろ」弟子の怠慢を次々と責め上げた
立川流Bコース(著名人コース)の人気は、Aコースの直弟子たちに新たな危機意識を植えつけた──。 ◇ ◇ ◇ 落語立川流Bコース(著名人コース)が世に受け入れられた背景には、一九…
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(11)立川流Bコースの隆盛は、伝統芸能としての落語を担う直弟子たちに苦い現実を突きつけることになった
落語立川流の独立は、落語協会に残った面々にも影響を残した。分裂の傷は浅くなかった──。 ◇ ◇ ◇ 「修業とは矛盾に耐えることである」 談志は弟子たちにそう言った。この言…
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(10)「Bコース」参加者は落語そのものではなく、“伝統芸能を土台とする場所”を求めていた
談志は落語協会を飛び出して立川流を立ち上げ、落語史上初のBコース(著名人コース)を新設する。 ◇ ◇ ◇ 落語立川流創設の一九八三年、東京ディズニーランドが華々しくオープンした…
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(9)「なんで弟子から金を取るのか?」マスコミから突っ込みが入った
真打ち昇進試験で弟子を落とされた談志は、寄席に出られないハンディを覚悟で落語協会から離脱し、さらに立川流創設を決意する──。 「立川流顧問ご依頼のすじ。特典は、談志独演会および一門の会無料ご招…
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(8)真打ち昇進試験での弟子2人不合格に激怒「俺は落語協会を出るぞ」と言い放った
一九七〇年代、落語界は大量真打ちを認めるか、厳選するかで揉めていた。この問題は増えすぎた二つ目に関する対応の試金石となった──。 「オイ、こんど、真打ちに試験制度を入れることにしたョ。これなら…
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(7)小さんは抱える、圓生は切る、談志は壊す
柳家小さん──。 “この師匠でなければとっくに破門になっている” 談志は常々そう口にしていた。 事実、この関係は普通なら成り立たない。落語史どころか、芸能史においてもきわめて…
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(6)談志は恵まれた新人タレント議員だったが、“プッツン”を露呈し一期六年で終わった
談志は石原慎太郎を通じて弟の裕次郎とも親しかった。裕次郎は日活に反抗して失踪事件を起こしたり、五社協定を破って石原プロ設立を強行したり、さまざまに世間を騒がせた。 慎太郎は「弟」と題した本で…
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(5)自ら立ち上げた「笑点」を去る…初代司会だったが、居心地のいい場所とはいえなかった
“輝ける昭和の象徴”と信じられていた東京オリンピック。その翌年の一九六五年に「金曜夜席」(日本テレビ系列)が始まった。この番組で談志考案の“大喜利”が披露され、六六年スタートの驚異的な長寿番組「笑点…
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(4)三十六人抜きで真打ちに昇進した志ん朝には、実力・血・系統がすべてそろっていた
「志ん朝に不幸があるとすれば、ライヴァルがいないことであった。自称ライヴァルはいたが、真のライヴァルはいなかった」(「名人志ん生、そして志ん朝」小林信彦) この“自称ライヴァル”が談志を指すこ…
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(3)焼け野原に建てられた新宿末広亭 戦争で壊滅した寄席が復活
九歳で敗戦を迎え、十六歳で落語界に飛び込むことになる立川談志。 ただし戦争明けの落語界は危機的状態にあった。寄席もホールも空襲で焼け、芸人たちは仕事を失った。 たとえば、古今亭志ん生…
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(2)負けず嫌いで皮肉なガキ “婉曲の笑い”と“残酷な笑い”のルーツ
のちに立川流顧問をつとめ、談志に“兄さん”と慕われた色川武大は、一九六九年から阿佐田哲也の名義で「麻雀放浪記」を書き始めた。 この作品は“坊や哲”すなわち色川自身の体験をもとにした壮絶な博打…
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(1)「大体お前さんも俺も一匹狼なんだ…あばよ、さよなら、談志師匠」石原慎太郎は弔辞をこう結んだ
「俺さまは立川談志だ。落語とは俺だ!」 この厄介な男の登場で落語界は揺れに揺れ、おかげで“落語”は“能”になることを免れた。伝統に依存せず、破壊と再生に身を削った噺家、立川談志。その荒々しく生…
