語り部の経営者たち
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WHILL 杉江理CEO<3>ハードウェアに挑戦した3つの勝算
2012年、これまでにない電動車椅子の会社、WHILLを日本で設立するとその翌年に、米国にも進出した。 「アメリカに行ったのは市場の大きさもありますが、アメリカでやりますと言わないと、お金が集…
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WHILL 杉江理CEO<2>パプアニューギニアでの刺激的な生活
日産を退職し、その後、中国に向かった杉江氏。南京という都市を選んだのは、今後需要が増える中国語を習得したいというのと、日本人があまりいないところという理由だった。まもなく日本語教師という職を得た。 …
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WHILL 杉江理CEO<1>悪路も走破可能の電動車椅子ベンチャー
これまで高齢者や障害者、ケガ人が主なユーザーだった車椅子が、まったく新しいものに変わろうとしている。車椅子に最先端のテクノロジーと高いデザイン性を取り入れ、注目を集めているのが電動車椅子のベンチャー…
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津田塾大学 島田精一理事長<4>都心の新キャンパスを実現
情報産業部門の業績はなかなか好転しなかったが、「責任を取る」と宣言した以上、逃げ出すわけにはいかなかった。懐にはいつも辞表を忍ばせていた。だが、それを使う場面は訪れなかった。同部門のトップに運よく就…
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津田塾大学 島田精一理事長<3>出社拒否反応で腰が抜けた
メキシコ三井物産副社長時代、無実の罪で現地の拘置所に195日間も収容されていた島田精一氏。短歌づくり以外に、獄中でもうひとつ励んだことがあった。マルチメディアの本を何冊も差し入れてもらい、最先端の情…
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津田塾大学 島田精一理事長<2>メキシコで生死の瀬戸際に…
無類の本好きの島田精一氏。猿飛佐助からカミュ、カフカまで手当たり次第に読破。その中には人生を大きく左右したものも少なくない。就職を決めるにあたって影響を与えた一冊は武蔵高校2年の時に読んだゲーテの「…
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津田塾大学 島田精一理事長<1>経営者の視点で新学部構想
5年後、紙幣に描かれる肖像が一新される。1万円札が日本資本主義の父・渋沢栄一、1000円札がペスト菌の発見者・北里柴三郎、そして5000円札が女子教育の先駆者・津田梅子――。 今から150年…
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銚子丸 石田満社長<4>寿司以外も…多角化路線に舵を切る
銚子丸は、1都3県に店舗展開する人気のグルメ回転寿司チェーンだ。 創業者からバトンを渡された石田は、人材育成と働き方改革に力を注いだ。 チェーン展開する上でマニュアルは必要だが、文字…
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銚子丸 石田満社長<3>病魔に侵された創業者が後継者を探す
グルメ回転寿司「銚子丸」の2代目社長を務める石田は、信金、スーパーなど回転寿司とは無縁の業界を歩んできた。 ディスカウントスーパー「オーケー」に勤務して12年経った頃、前職のビデオレンタルチ…
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銚子丸 石田満社長<2> 信金マンから小売業の世界へ
銚子丸は、1都3県に店舗展開する人気グルメ回転寿司だ。 1995年、亀有信用金庫に勤務していた石田のもとに、高校時代の友人から転職話が持ち込まれる。 仕事上、多くの企業と関わりのある…
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銚子丸 石田満社長<1>顧客満足度ナンバーワンの回転寿司
銚子丸は、日経トレンディなど主要雑誌数誌で軒並み顧客満足度ナンバーワンを獲得している人気の回転寿司店だ。100円寿司よりも単価は上がるが、ネタの良さで勝負をするグルメ回転寿司の中ではダントツの店舗数…
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セントラルスポーツ 後藤忠治会長<4>鈴木大地の金メダルを
東京五輪の申し子ともいえるセントラルスポーツ株式会社は、創業時のメンバーが競泳と体操選手だったことから、両種目のスクール指導から始まった。現在は全国に236店舗を運営し、会員は約43万7000人に達…
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セントラルスポーツ 後藤忠治会長<3>褒めて自主性を育てる
フィットネスクラブの草分けであるセントラルスポーツ株式会社は、1964年の東京五輪に出場した後藤が中心となって設立。競技者から経営者に転じて、5年半ほどしか経験がない中でのチャレンジだったが、77年…
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セントラルスポーツ 後藤忠治会長<2>選手から経営者に
セントラルスポーツ株式会社は現在会長の後藤忠治をはじめ、体操金メダリストの小野喬、遠藤幸雄、同じく銅メダリストの小野清子ら元東京五輪選手たちが立ち上げた会社。健康ブームなどの時代の波に乗って成長し、…
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セントラルスポーツ 後藤忠治会長<1>五輪出場が人生の挫折
1964年の東京五輪から56年ぶり、2度目の東京五輪が1年後に迫っている。フィットネス業界大手のセントラルスポーツ株式会社は、その56年前の東京五輪出場者たちがつくった会社だ。会長の後藤忠治は競泳選…
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アサヒビール 塩澤賢一社長<7>自分で考えられる人材を育成
東京での支店長や業務用の営業部長を経て、塩澤賢一が大阪支社長に就いたのは2006年9月。48歳の時だった。130人を超える大組織であり、遠隔地にも支店が点在する。 「本社が言ってくる言葉を、自…
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アサヒビール 塩澤賢一社長<6>「いつも頭上1mに包丁が…」
東京・吾妻橋支店時代、飲食店にビールなど酒類を供する業務用酒販店への営業で成果を上げた塩澤賢一。1992年9月、大阪支社市場開発部に異動となり、アサヒの牙城である大阪でも同じ業務用の営業に従事する。…
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アサヒビール 塩澤賢一社長<5>業務用酒販店から反発を受け
スーパードライの大ヒットにより、経営危機を脱するアサヒビール。関東支店営業課で栃木県を担当していた塩澤賢一は、スーパードライが発売された翌年の1988年に結婚する。月曜午前に東京・京橋の支店で会議を…
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アサヒビール 塩澤賢一社長<4>売れすぎて頭を下げつづけた
流れが少し変わったのは、1986年に入ってからだった。1月にCIが導入されて会社のロゴが変わり、2月にリニューアル発売の「アサヒ生ビール」(通称「コク・キレ」)に採用される。 テレビCMには…
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アサヒビール 塩澤賢一社長<3>「社員は明るかったのです」
1981年にアサヒビールに入社し、京都支店に配属された塩澤賢一(60)。 京都でのアサヒのシェアは15%近くあり、全国平均の10%台前半よりは高かった。「10%を割ったら大変なことになる」と…