保阪正康 日本史縦横無尽
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統帥権干犯こそが戦争指導の邪魔な刃だと東條英機は考えた
東條英機が首相兼陸相、そして新たに参謀総長を兼ねるのは、まさに独裁体制であった。一人の、さして軍内では有能とは言われてなく、凡庸たる軍人にこれだけの権力を与えることで、日本は戦争の行く末を懸けること…
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アメリカと日本には最低でも30対1以上の戦力差があった
太平洋戦争の第3期から第4期にかけての分かれ目を昭和19年2月ごろ、と私は考えている。昭和19年1月からはマーシャル諸島攻撃に始まり、すでに記したようにクェゼリン島は玉砕している(2月5日)。このク…
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江橋慎四郎述懐 学徒壮行会の答辞は交通事故のようなもの
私が江橋慎四郎に会ったのは2012年の夏だったように思う。湘南地方のある街に住んでいたのだが、年齢は90歳に達していた記憶がある。青年期からさまざまな運動で鍛えただけに、老いを感じさせない強健さが全…
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学徒出陣の悲劇 答辞を呼んだ東大生にまつわる不当な噂話
学徒出陣は悲劇として、戦後も語られてきた。その半面、出陣学徒を代表して答辞を読んだ東京帝大の学生には不当な噂が流された。確かに戦場で亡くなった学徒も多いのだから、誰かにその不満をぶつけたいとの心理も…
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出陣学徒壮行会 女子学生は「帰ってきて」と泣いて祈った
戦線は伸びる。戦死者は増える。当然なことに兵士の数は少なくなる。それを補うために考えられたのが、学生、生徒の徴兵猶予令の停止、あるいは女子勤労動員の促進であった。国民全てを兵力に組み込むというのであ…
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玉砕戦術に「毒ガスを使うべきでは」と米軍の参謀は言った
ギルバート諸島のマキン、タラワ両島の玉砕によって、アメリカ軍の攻撃はマーシャル諸島、そしてマリアナ諸島に向かってくることになったが、日本軍の玉砕という戦術がそのスピードを鈍らせたのも事実であった。特…
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第3期の崩壊…マキン、タラワ、クェゼリンの3島が玉砕した
太平洋戦争の第3期である「崩壊」は、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死(昭和18年4月18日)から翌19年1月か2月ごろまでを指すのだが、この間の特徴は2つある。ひとつはアメリカ国内の産業が戦時に完全…
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軍中央の出たとこ勝負と面子のために兵士が玉砕させられた
この玉砕を大本営は国民の戦意高揚に利用しようとした。何から何まで異例の扱いであった。5月30日の大本営発表は、「5月29日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮…
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アッツ島で戦死 33歳の軍医は妻と娘に別れの日記を書いた
太平洋戦争下で初めての玉砕となったアッツ島での戦いには、多くの悲惨なエピソードが残されている。それらのエピソードを整理したとき、私は涙が止まらなかった。 アッツ島での存命兵士やキスカ島からの…
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投降促すビラを無視し負傷者は自決…最後の突撃が行われた
アメリカ軍がアッツ島に上陸して18日目、5月29日である。この日まで6日間、激戦の日々であった。日本軍兵士の食料も武器弾薬ももう限界であった。日本軍の陣地は全て制圧されている。アメリカ軍に追い詰めら…
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わずか200人の日本兵陣地に5万発の銃弾が浴びせられた
アッツ島の守備隊2600人余の日本兵は、1万2000人余のアメリカ軍兵士を相手によく戦ったといえるだろう。戦闘はほぼ19日間にわたって続き、日本軍はいわば精も根も尽き果てた状態になった。食糧も弾薬も…
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アメリカ軍は1万2000人の兵力でアッツ島に上陸してきた
太平洋戦争の3年8カ月の間を戦闘の変化に合わせて区分すると、連合艦隊司令長官の山本五十六が亡くなってからおよそ9カ月後の昭和19年1月から2月ごろまでを、私は第3期の「崩壊」の時期というべきだと思う…
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山本は「い号作戦」成功と同時に外交交渉を行う方針だった
山本五十六の戦死は、単に海軍の軍事指導部のひとりが亡くなったのとは比重が違う。どういう意味か。 山本の死で戦争を、政治と戦闘の組み合わせで考えることができる指導者がいなくなってしまったのだ。…
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山本五十六の死体は口と鼻に蛆が沸いているに過ぎなかった
この報告書はもともとは南東方面艦隊司令部が第一発見者から聞き取り調査を行い、それを文書化して海軍省に送ったようであった。発見したのは陸軍の第6師団のある連隊の砲兵中隊の隊員たちである。その時の責任者…
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ある軍医が残した資料 墜落後、山本五十六は生きていた?
山本五十六の戦死はしばらくは伏せられていた。国民に与える影響が大きいという理由であったが、しかし現実にはその噂は少しずつ国民に知られていった。 大本営は5月21日に「山本五十六は本年四月前線…
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日本の太平洋戦争の象徴 山本五十六はなぜ撃墜されたのか
連合艦隊司令長官の山本五十六が戦死したのは昭和18年4月18日であった。ちょうど1年前はドウリットル隊による東京爆撃のあった日だった。山本がその1年後に戦死するとは誰も予想しなかったであろう。山本の…
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日本兵の捕虜のためにアメリカはニセの戸籍を作ってくれた
3年8カ月の太平洋戦争で日本軍は、第2段階(これを私は挫折の期間というのだが)で陸軍も海軍も惨敗したのである。アメリカ軍の反抗は昭和18年に入ってからと一方的に決めつけて決戦時期を自分たちの都合のい…
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大本営は犠牲者2万5000人の大敗を「転進」でごまかす
大本営が最終的にガダルカナルの基地奪回を諦めるのは、12月の半ばに真田穣一郎作戦課長が作戦部参謀の2人の少佐を連れてラバウルに赴いて以後であった。真田は12月になって課長に就任したが、事情を確認する…
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兵士の食事は定量の1割で戦った 6日間絶食の部隊もあった
参謀本部作戦部は、昭和18年1月下旬をガダルカナルの再攻撃開始と想定し、それまでに兵力を増強するとか、兵員や軍需品を輸送するとか、計画だけは立てている。制海権、制空権が確保されているなら、補給も行わ…
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できもしない奪回計画を論じている間に兵士が犠牲になった
しかし第17軍は、参謀本部には現在の兵力をさらに増強して攻撃の準備をしたい、第38師団の主力を強行上陸させたい、といった内容を打電している。それを受けて大本営作戦部長の発した電文は、速やかに準備を整…
 
