保阪正康 日本史縦横無尽
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アメリカ軍の戦死、戦傷者は240人 日本軍は5000人に達した
レイテ決戦の内実を見ていくと、戦力比の違いがより鮮明になってくる。明らかになっている資料などで大まかにその戦いの様子を書いておこう。なぜなら、このレイテ決戦から特別攻撃隊の作戦が発動されたからである…
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瀬島龍三はインタビューで「そんなこと言った記憶はない」
台湾沖航空戦はなぜ正確に陸軍に伝わらなかったのか、その点を前回の続きとして検証したい。 当時作戦参謀の瀬島龍三は堀の電報を無視する形になったのだが、そこにはどのような判断があったのだろうか。…
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「きみの電報を握りつぶした」と打ち明けた瀬島龍三
情報参謀の堀栄三が送った台湾沖航空戦への疑問の電報は、大本営作戦部にどのような影響を与えたのか。つまりは与えなかったからルソン島決戦はレイテに変えられたとも言える。大本営の情報参謀の杉田一次も東京か…
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大戦果を信じ込み…大本営は強引にレイテ決戦に舵を切った
一情報参謀の感想は所属部長の情報部長に電報で送られた。堀栄三が鹿屋基地から打ったその電報がどのような形で処理されたのかなどはわからない。堀にはどう見ても2、3隻の戦艦に損害を与えたに過ぎないと思われ…
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海軍の報告に疑念「陸軍のパイロットはまだ帰ってこない」
台湾沖航空戦の虚報はどうして起こったのか、そしてそれを陸軍が全く知らなかったというのは事実なのか。前回、3条件がこの背後から浮かび上がると書いたが、そのうちの①と③について今回は記しておきたい。 …
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大本営は大勝利という「虚報」で50万人の戦死者を出した
台湾沖航空戦の勝利は全くの虚報であった。大本営発表は10月12日から15日までの間に6回にわたって行われた。発表では空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、その他艦種不詳13隻など、日本軍は徹底的にアメリ…
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大本営発表の嘘 台湾沖航空戦で敵に大打撃を与えたはずが
小磯内閣になっても現実には戦争継続の方針は変わりなく、むしろ一度でも勝機を掴んでという意地が軍事指導者の姿勢となった。サイパン陥落に続く戦場は比島での決戦に照準を合わせた。そのために比島にいる第14…
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海軍と陸軍は資料を「メーキング」して天皇を騙していた
東條英機内閣が総辞職したのは昭和19年7月18日である。後任を決めるにあたって、この戦争をまだ続けるのか、それとも講和を目指す内閣にするのか、それが問われていた。これは近衛文麿が日記で明かしているの…
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昭和19年7月 岡田啓介ら重臣の包囲網で東條内閣は倒れた
東條内閣打倒の動きは、いくつかのルートで活発化したのだが、もっとも力を持ったのは海軍の長老ともいうべき存在で、重臣(首相経験者)でもあった岡田啓介であった。岡田は2・26事件当時の首相で、青年将校の…
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サイパン陥落 東條は「まだ真剣にならないのか」と言った
サイパンの陥落によって日本国内に絶望的な空気が漂うようになった。むろん、7月7日の玉砕はすぐには国民には伝えられなかった。 7月18日の大本営発表では、守備部隊は7日早朝より「最後の攻撃を敢…
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あ号作戦は失敗 日本軍は民間人の投降を許さず次々と殺害
日本海軍がアメリカ軍の機動部隊と戦い、相手の戦力を大幅にダウンさせようと企図した「あ号作戦」は、戦力の上では圧倒的にアメリカ軍が有利であった。日本側は空母9隻、戦艦5隻、重巡11隻、駆逐艦29隻など…
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アメリカ軍のサイパン上陸 日本軍との戦力比は1対43だった
アメリカ軍のサイパンへの上陸はそれまで太平洋の激戦地帯で戦った部隊が6カ月の休暇を終え、態勢を整えての作戦行動であった。日本軍の守備隊は第31軍隷下の第43師団、独立混成第47旅団、それに海軍の第5…
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米軍のサイパン島上陸 東條は「撃退」でごまかそうとした
日本の参謀本部の参謀たちは、サイパンは難攻不落であり、陣地を固めているのでアメリカ軍はむしろニューギニアやフィリピンのルートから攻めてくると信じていた。東條は参謀総長として海軍の軍令部に対し、「サイ…
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アメリカ軍の集中爆撃でサイパン島の防御陣地は潰された
インパール作戦が思うように進まない。それに輪をかけるようにさらに日本にとって不本意な結果が起こる。第2次世界大戦という枠組みで見るのなら、日本の同盟国であるドイツは、アメリカを中心とする連合国に次第…
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兵士の司令官への思い…「畳の上で死んだことが許せない」
インパール作戦に従軍した兵士たちはコヒマから、インパールからと、連合国軍の追撃を受けながら撤退していった。この作戦に従軍した兵士たちは京都の連隊の人が多かった。昭和50年代、そういう兵士たちを訪ねて…
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東條英機、牟田口廉也のせいで兵士7万2000人以上が死んだ
日本軍のコヒマへの進駐と占領はイギリス軍の軍事指導者たちを驚かせた。しかし彼らはすぐに反撃の体制を組んだ。すでに紹介したように、アメリカ軍とともに徹底した空輸作戦を行い、兵員、軍需品などを次々と送り…
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日本軍はインパールにたどり着きながら敵に包囲された
柳田元三の指揮する第33師団は駐屯地からインパールへ、山内正文師団長の第15師団、佐藤幸徳の指揮する第31師団もやはりインパール、コヒマに向けて入った。この作戦に参加した兵士たちの証言を何度か聞いた…
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インドに進撃しアッサム州の油田確保狙ったインパール作戦
3年8カ月の太平洋戦争を5段階に分けて、第4期が「解体」の時期だと私は考える。この期間が昭和19年2月ごろから翌20年4月までとなるのだが、いわば東條首相、陸相が参謀総長を兼ね、軍政と軍令の両面を握…
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大本営発表「撃沈」のウソとおかしさ 小学生も見抜いた
昭和18年から19年にかけて、「大本営発表」がどれほど嘘、偽りの報道を行おうと、日本が敗戦の道を歩んでいることは国民の誰もが理解できた。この第3期の崩壊の時代、ある国民学校の6年生の生徒が、大本営発…
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統帥権干犯こそが戦争指導の邪魔な刃だと東條英機は考えた
東條英機が首相兼陸相、そして新たに参謀総長を兼ねるのは、まさに独裁体制であった。一人の、さして軍内では有能とは言われてなく、凡庸たる軍人にこれだけの権力を与えることで、日本は戦争の行く末を懸けること…
 
