保阪正康 日本史縦横無尽
-
全共闘運動が学生の怒りから始まったのは当然の現象だった
ベビーブーム世代が青年期、壮年期、そして高齢期を迎えて行く時、彼らの世代体験は常に有史以来の初体験という言葉で語られた。それまで1年に200万人余の同年代が存在することはあり得なかったからだ。もっと…
-
3年間で810万人に達した新生児が「第2の開国」を代表した
年が明けて令和2年となった。どのような年になるのだろうか。ちなみに明治で数えると153年、大正109年、昭和なら95年、そして平成32年になる。近現代史はやっと150年を超えたということになろうか。…
-
吉田茂首相「バカヤロー解散」で選挙は右と左の百家争鳴に
昭和28年4月の総選挙は、講和条約発効後の2回目の選挙であった。最初の選挙は独立回復から4カ月後に行われた、いわゆる「抜き打ち解散」(昭和27年10月)で、これは吉田茂の政治的独善性の象徴のようなも…
-
右翼は戦争を美化 キャバレーでは「軍艦マーチ」が流れた
新しい時代の到来――。昭和27年4月28日以後の日本の風景はまず反米闘争が表面化した。すでに紹介したように、3日後の5月1日の「血のメーデー」などがその例である。アメリカ軍の基地が、ほとんどアメリカ…
-
乗客乗員37名全員が死亡した「もく星号」墜落事故の謎
講和条約発効(1952年4月28日)の3週間ほど前の4月9日、羽田空港から福岡に飛び立った日本航空の旅客機「もく星号」が離陸20分後に連絡を断った。日本の各機関が行方を捜索するなか、アメリカ側から静…
-
「日本人は12歳の少年」発言でマッカーサー熱が冷めた
マッカーサーが解任され、日本を離れるにあたって、日本社会は一段と興奮状態になった。この国が戦争から解放され、平時の生活に戻ったその恩義をマッカーサーに仮託したということもできた。解任の5日後に、マッ…
-
日本人は軍人が政治家に従う民主主義のルールに驚いた
昭和27(1952)年4月28日に、日本はようやく国際社会に復帰できたわけだが、これは基本的な社会構造が変わることでもあった。それまでは国としての独自性を失い、独立国ではなかったのだ。外交権も持たな…
-
大久保利通と吉田茂の共通点 天皇を利用した宰相たち
大久保利通と吉田茂の共通点をさらに挙げておこう。それは天皇制を奉じながら、実は天皇を自らの考える枠内にとどめておこうとの計算と表裏の関係で捉えることができる。 第1の開国にあっては結局、天皇…
-
吉田茂にはライバルの石橋湛山を見捨てる冷たさがあった
大久保利通と吉田茂に共通する性格として、政敵に対して極めて過酷であったことが挙げられる。言い方を変えれば、自らの政治力を高めるために容赦しなかったということだ。第1の開国と第2の開国を担った祖父と孫…
-
吉田茂と大久保利通の「開国」をめぐる5つの共通点
明治維新を第1の開国とすると、第2の開国はこの講和条約の発効以後となる。両者にはいくつもの共通点があった。むろん相違点も多いのだが、重要な点では共通点の方が多いと言えるのではないかと、私には思える。…
-
吉田茂は「血のメーデー」を治安対策進行に巧みに利用した
この「血のメーデー」は、独立を回復した日本社会に潜在的に流れるさまざまな不安と不満がいかに大きかったかも示していた。警官隊の催涙ガス、発砲に対してデモ隊も火炎ビンや投石で対抗した。皇居前広場とその周…
-
5月1日のメーデーで警官は警棒で殴りピストルを水平撃ち
講和条約が発効して3日後の5月1日はメーデーに当たった。この日のメーデーが荒れるだろうとは当初から予想されていた。破防法が議会に提出され、吉田内閣は力で反政府デモを抑える意思を明確にしていた。総評な…
-
吉田内閣の政策「左翼」締めつけで血生臭い事件が起きた
吉田内閣の政策について、国内にはあまりに反共政策すぎるという不満と、アメリカの属国ではないかとの不満が渦巻いていた。しかしそういう勢力は東西冷戦のもとで中立を守るべきか、それとも社会主義陣営に与する…
-
吉田茂は日米安保への批判を封じるために共産主義を煽った
吉田茂が一人で責任を負うと断じた日米安保条約は、戦後日本の運命を決めることになった。大げさに評すならば、日本はこの時からアメリカの国益の枠組みの中で動かざるを得ない運命を与えられたと言ってもいい。 …
-
吉田茂は日米安保が日本社会で問題になることを知っていた
講和条約の調印式が終わったのは昭和26(1951)年9月8日の午前であった。アルファベット順に調印していき、結局、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドは調印を拒否している。形の上では日本は全面講和を選…
-
吉田茂は「日本の指導者は武力制圧を考えて行動」と謝罪
講和会議は、アメリカのトルーマン大統領の挨拶から始まった。「今こそ憎しみは捨てよう。これからは勝者も敗者もない。平和への協力者があるのみ」という内容であった。講和条約の提案国としてアメリカ、イギリス…
-
サンフランシスコ講和条約は日本の「第2の開国」だった
明治初期の日本が選択すべき道はいくつかあったが、結局、日本は帝国主義的方向を選んだ。その経緯について前回まで指導者のエピソードなどを交えて語ってきた。本日から10回ほどは時代が大きく飛んで、日本が講…
-
伊藤博文は板垣退助らの自由民権運動を容赦なく弾圧した
明治10年代、自由民権運動と伊藤博文を中心とする政府は本格的に対立していった。政府は政治的、法的に抑え込む方針を譲らず、その弾圧ぶりは、その後の日本政府の思想弾圧の原型ともなった。 明治15…
-
西園寺公望は「天皇はもっとリベラルであるべき」と考えた
自由民権運動を語るときに忘れてならない人物がいる。西園寺公望だ。昭和の時代には元老として天皇に次期首相を推挙したり、天皇の側近として立憲政体を守り抜く役を務めた。軍部にとって最も目障りな人物であった…
-
弾圧された民権運動は政治小説となって国民に訴えかけた
民権運動は国民の中にも少しずつ広がりを見せた。歌謡、文学、さらには講談にまで民権をテーマにした出し物が増え、巷では民権数え歌までもが愛誦された。文芸評論家の小田切秀雄はその著書「二葉亭四迷」で次のよ…