田中秀征 政界回想寸話
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梶山静六元官房長官(4)戦争体験に裏打ちされた「戦うハト」
〈咲くも華 散るもうるわし 若ざくら 国守る花と うち出でて散らむ〉 ■過酷な決意 この歌は、1945年3月、終戦間近とも知らず梶山が“特攻”になるために満州で訓練を受けていたときの歌。…
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梶山静六元官房長官(3)凡人、軍人、変人の戦い
梶山と私は“創業政治家”という点で一致するところがある。 1世と2世の違いは、政治家より中小企業の経営者の1世と2世を比べると歴然としている。もちろん2世には2世の利点があるが、1世のそれは…
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梶山静六元官房長官(2)「大蔵省に騙された」ゆえの丁重な謝罪
梶山が私に突然、電話してきたのは、彼が1997年9月に官房長官を辞任し、翌98年7月の自民党総裁選に立候補する間のこと。残念ながら日時を示したものが見つからないが、話の内容は鮮明に記憶している。 …
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梶山静六元官房長官(1)田中角栄との出会い
タカの心臓を持つハト、梶山静六を失って25年になる。混迷の現状を見て「今ありせば」と願う政治家のひとりだろう。 梶山は茨城県選出の衆議院議員。橋本龍太郎内閣の官房長官を務め、他に法務、通産、…
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首相談話の意義(4)細川護熙首相の突破力
■海外の大反響 1993年の総選挙で自民党は55年の結党以来初めて政権から離れた。非自民政権といわれた細川護熙政権はかつてない国民的人気を博した。 細川首相は8月10日の初記者会見で「…
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首相談話の意義(3)新党さきがけの理念
■混迷する自民党 1991年11月、宮沢喜一内閣が発足すると、私は経済企画庁政務次官として政府の末席に加わった。長年練り上げた生活大国構想を経済計画として世に出す手伝いをする。数十回開かれた部…
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首相談話の意義(2)200、300年に一度の歴史変動
■体制ファーストの時代 最近はアメリカファースト、日本ファーストなど自国利益を強調する政治スローガンが広がっている。 しかし、第2次大戦後、40年も続いた米国とソ連の二極体制では、国家…
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首相談話の意義(1)天安門の独裁者たち
■北京での3首脳 去る9月3日、中国は抗日戦勝80年の記念式典を北京の天安門広場で開催した。 この式典には、ウクライナ侵攻を続けるロシアのプーチン大統領と北朝鮮の金正恩総書記も出席。中…
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哲人政治家 井出一太郎の風格(4)市井に隠れた晩年
自民党結党30周年を迎えた1985年の党大会後、井出元官房長官は私を呼んで今期限りでの引退の意向を話した。白内障が悪化し、ライターでたばこの火もつけられなくなっていたので、私は何となくそう感じていた…
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哲人政治家 井出一太郎の風格(3)自民党綱領改定委員長として
この連載の初回に書いたように、私は昭和60(1985)年に自民党機関紙にひとつの提案をした。昭和30年からの結党30周年を迎えて、「新しい綱領をつくろう」という呼びかけであった。 当時の金丸…
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哲人政治家 井出一太郎の風格(2)宮沢喜一に言わしめた「あの人は特別の人」
私が初当選(1983年)して間もない頃、歯科医師会から当選祝いを兼ねた集会の案内状が来た。それは長野県選出の自民党議員に対するものであった。 私はその選挙でも無所属で出馬したので、医師会や歯…
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哲人政治家 井出一太郎の風格(1)九死に一生を得て政界入り
暮れ行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛 これは島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の一節。今でも夕刻に佐久平に立てば、どこかから草笛の音が聞こえてくる感じがする。 長野県の県歌「信濃の国」…
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「60年安保」のライバル 西部邁と斎藤驍(4)叶わなかった3人の再会
■人材を輩出した学生運動 「60年安保」が終わると、国民の関心と力は一斉に経済の高度成長に向かった。そして、デモに加わった学生たちは、経済界、官界、学界と分かれて日本の発展に関わっていく。思え…
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「60年代安保」のライバル 西部邁と斎藤驍(3)「政治の季節」から新時代へ
1960年6月15日は「60年安保」を象徴する日となっている。この日の安保改定阻止デモには全国で580万人が参加したという。そして全学連主流派の西部邁などが指揮した学生3万人が国会に集結し、その一部…
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「60年安保のライバル 西部邁と斎藤驍」(2)「戦後史の転換点」となった国民運動
今年は「戦後80年」の節目の年。「昭和100年」にもあたる。 かつて宮沢喜一元首相と経済雑誌で対談したとき「戦後史の転換点」について話したことがある。そのとき、政治の転換点と経済の転換点の双…
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「60年安保」のライバル 西部邁と斎藤驍(1)イカサマ選挙が生んだ「ニセの委員長」
ちょうど40年前の夏の日のこと。衆議院議員会館の私の部屋に学生時代の友人、斎藤驍弁護士から電話があった。 出るといきなり、「オマエ『諸君!』を読んだか」と聞くから「読んでない」と答えると、一…
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焦りすぎたプリンス 加藤紘一(4)別れ際、最後の忠告に「わかってる、わかってる」と
加藤紘一が議員辞職した翌2003年8月、彼から久しぶりに電話があった。「会いたい」と言うから「電話じゃダメか」と返すと、「頼みがあるから会ってくれ」と言う。 ホテルのカフェで、用件を聞く前に…
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焦り過ぎたプリンス 加藤紘一(3)悪夢のような2000年…「加藤の乱」は政治劣化の出発点になった
紀元2000(平成12)年は、日本の政治、特に「保守本流」にとっては悪夢のような年と言わざるを得ない。 保守本流は通常、昭和20年代(1945~54年)に政権を担当した吉田茂の自由党の流れを…
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焦り過ぎたプリンス 加藤紘一(2)待望の党幹事長になっても総理の座が遠のき、疑心暗鬼に
加藤紘一は1984年中曽根内閣で防衛庁長官として初入閣を果たす。私は前年暮れの総選挙でようやく初当選し、宏池会に所属していた。 私は「防衛庁長官は君のようなハト派が務めるのが望ましい」と彼を…
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焦りすぎたプリンス加藤紘一(1)「破竹の勢い」に漏らした一抹の不安
加藤紘一(1939~2016年)は元外務官僚。72年に政界に進出し、大平正芳内閣で官房副長官、中曽根康弘内閣で防衛庁長官、宮沢喜一内閣で官房長官を務めた。自民党にあっては、政務調査会長や幹事長の要職…
