田中秀征 政界回想寸話
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哲人政治家 井出一太郎の風格(4)市井に隠れた晩年
自民党結党30周年を迎えた1985年の党大会後、井出元官房長官は私を呼んで今期限りでの引退の意向を話した。白内障が悪化し、ライターでたばこの火もつけられなくなっていたので、私は何となくそう感じていた…
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哲人政治家 井出一太郎の風格(3)自民党綱領改定委員長として
この連載の初回に書いたように、私は昭和60(1985)年に自民党機関紙にひとつの提案をした。昭和30年からの結党30周年を迎えて、「新しい綱領をつくろう」という呼びかけであった。 当時の金丸…
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哲人政治家 井出一太郎の風格(2)宮沢喜一に言わしめた「あの人は特別の人」
私が初当選(1983年)して間もない頃、歯科医師会から当選祝いを兼ねた集会の案内状が来た。それは長野県選出の自民党議員に対するものであった。 私はその選挙でも無所属で出馬したので、医師会や歯…
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哲人政治家 井出一太郎の風格(1)九死に一生を得て政界入り
暮れ行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛 これは島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の一節。今でも夕刻に佐久平に立てば、どこかから草笛の音が聞こえてくる感じがする。 長野県の県歌「信濃の国」…
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「60年安保」のライバル 西部邁と斎藤驍(4)叶わなかった3人の再会
■人材を輩出した学生運動 「60年安保」が終わると、国民の関心と力は一斉に経済の高度成長に向かった。そして、デモに加わった学生たちは、経済界、官界、学界と分かれて日本の発展に関わっていく。思え…
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「60年代安保」のライバル 西部邁と斎藤驍(3)「政治の季節」から新時代へ
1960年6月15日は「60年安保」を象徴する日となっている。この日の安保改定阻止デモには全国で580万人が参加したという。そして全学連主流派の西部邁などが指揮した学生3万人が国会に集結し、その一部…
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「60年安保のライバル 西部邁と斎藤驍」(2)「戦後史の転換点」となった国民運動
今年は「戦後80年」の節目の年。「昭和100年」にもあたる。 かつて宮沢喜一元首相と経済雑誌で対談したとき「戦後史の転換点」について話したことがある。そのとき、政治の転換点と経済の転換点の双…
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「60年安保」のライバル 西部邁と斎藤驍(1)イカサマ選挙が生んだ「ニセの委員長」
ちょうど40年前の夏の日のこと。衆議院議員会館の私の部屋に学生時代の友人、斎藤驍弁護士から電話があった。 出るといきなり、「オマエ『諸君!』を読んだか」と聞くから「読んでない」と答えると、一…
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焦りすぎたプリンス 加藤紘一(4)別れ際、最後の忠告に「わかってる、わかってる」と
加藤紘一が議員辞職した翌2003年8月、彼から久しぶりに電話があった。「会いたい」と言うから「電話じゃダメか」と返すと、「頼みがあるから会ってくれ」と言う。 ホテルのカフェで、用件を聞く前に…
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焦り過ぎたプリンス 加藤紘一(3)悪夢のような2000年…「加藤の乱」は政治劣化の出発点になった
紀元2000(平成12)年は、日本の政治、特に「保守本流」にとっては悪夢のような年と言わざるを得ない。 保守本流は通常、昭和20年代(1945~54年)に政権を担当した吉田茂の自由党の流れを…
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焦り過ぎたプリンス 加藤紘一(2)待望の党幹事長になっても総理の座が遠のき、疑心暗鬼に
加藤紘一は1984年中曽根内閣で防衛庁長官として初入閣を果たす。私は前年暮れの総選挙でようやく初当選し、宏池会に所属していた。 私は「防衛庁長官は君のようなハト派が務めるのが望ましい」と彼を…
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焦りすぎたプリンス加藤紘一(1)「破竹の勢い」に漏らした一抹の不安
加藤紘一(1939~2016年)は元外務官僚。72年に政界に進出し、大平正芳内閣で官房副長官、中曽根康弘内閣で防衛庁長官、宮沢喜一内閣で官房長官を務めた。自民党にあっては、政務調査会長や幹事長の要職…
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李香蘭-時代が招いた3度の号泣(4)「今も私は裁かれている」…自民党ハト派の「要」として贖罪に努めた
私が李香蘭こと山口淑子の存在を知ったのは高校生の頃。長野市の3本立て映画館で、池部良と共演した「白夫人の妖恋」という映画を見たときであった。中国を舞台にした妖気が漂う恋物語で、不気味な感じだった。 …
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李香蘭-時代が招いた3度の号泣(3)大スターから一転、死刑求刑
反満抗日ゲリラによる襲撃事件と日本軍による平頂山事件を目の当たりにするという運命的体験から間もなく、一家は撫順から大都市「奉天」に移る。そこで山口淑子は、父と親しい李家の名目上の養女となり、「李香蘭…
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李香蘭-時代が招いた3度の号泣(2)「時代の子の運命」を背負う
李香蘭の伝記は、かつて時事通信社に勤め、速水優日銀総裁に請われて副総裁を務めた藤原作弥との共著となっている。李香蘭が真剣に頼んで実現したという。 編集の才覚はもちろんだが、彼自身が満蒙で育っ…
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李香蘭-時代が招いた3度の号泣(1)「昭和史」と並走した生涯
この4月末日、私は久しぶりに「ミュージカル李香蘭」を見る機会を得た。日頃、ミュージカルとは縁のない私だが、これだけは1991年の初演以来、特別招待を受けてすでに数回は劇場に足を運んでいる。 …
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石橋湛山と保守本流(4)岸信介との奇妙な連携で「小日本主義」は成功した
敗戦が避けられなくなった昭和19(1944)年、大蔵省内に設置された「経済特別調査室」で、東洋経済新報社社長だった石橋湛山は「四つの島になったら、やり方によってはそれはできる」と主張した。しかし、気…
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石橋湛山と保守本流(3)9条は「痛快極まりない」…憲法観は岸信介とは対局だった
昭和20年代(1945~54年)に新憲法制定に関与し、戦後日本の再建を主導した自由党系(保守本流)と、それを倒し、保守合同を主導した民主党系(自民党本流)の基本的な違いは、先の大戦についての歴史認識…
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石橋湛山と保守本流(2)岸信介はわずか2年で政界の実力者となり「自民党本流」をまとめた
「保守本流」とは通常、昭和20年代(1945~54年)に政権を担当した自由党の流れ、特に吉田茂の人脈に属する人たちを指していわれてきた。 そして、それに属さない保守政治家、例えば昭和20年代の…
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石橋湛山と保守本流(1)“国粋主義者”岸信介との対立
石橋湛山が晩年病床にあった時、足しげく見舞いに通っていた3人の政治家(石田博英、井出一太郎、宇都宮徳馬)から、私は湛山の病床での発言を聞いている。その多くは、岸信介への激しい批判の言葉だった。湛山が…